風と、光と・・・

すべての人を照らすまことの光があって、世にきた。(ヨハネによる福音書1:9)

葛原妙子39

葛原妙子の最終歌集『をがたま』の中には次のような短歌が収められている。

十萬円のイコンを眺め立ちてゐるわれをみつむるイエス・キリスト『をがたま』
この短歌の前には次のような説明書きが置かれている。

イコン=ギリシア正教会で崇拝する美しい板絵彩色の聖書画。聖ルカの書き初めの由なるも後ひろく庶民信徒の描く所となる。
何気ない一首であるが、複雑な思いが込められていると思う。
先ず、「十萬円の」で始まるところに、キリストを銀貨30枚で売り渡したユダのことが妙子の頭に浮かんでいたであろうと思わされる。ここには、偶像礼拝や拝金主義など様々なものが込められているように思う。聖書画を買うという行為に表される偶像崇拝的なものを十分に感じ取りながら、そして自分はそんなものに信仰心を置いたりはしないとはっきりと意識しながら、それでも、自分を見つめてくる聖画の中のキリストのまなざしの前で逡巡している様がほんの僅かだが覗えるように思う。
「信仰を持つとは、どういうことであろうか」ーそんなことを思わされる一首である。


又、この『をがたま』では次のような歌も詠われている。

午後三時わが室内にたふれゐる柱の影を人はまたぎぬ『をがたま』
この歌の「わが室内にたふれゐる」「柱」からは妙子の信仰告白が聞こえるように思う。「キリストの十字架は私の罪の贖いのためであった」と。

時はもう昼の十二時ごろであったが、太陽は光を失い、全地は暗くなって、三時に及んだ。そして聖所の幕がまん中から裂けた。そのとき、イエスは声高く叫んで言われた、「父よ、わたしの霊をみ手にゆだねます」。こう言ってついに息を引きとられた。(ルカによる福音書23:44~46)
この聖書の言葉に照らして見るなら、太陽が光を失った中での「影」という表現はおかしなことだと思えるのだが、この歌の「午後三時の室内にたおれる柱の影」は、イエスが息を引き取ったことを象徴しているのだと見るなら、辻褄が合うように思う。
そうして、心ひそかに大切にしているものを人は無造作に跨いで通る、と言っているのである。あぁ、妙子の信仰は誰からもなかなか気づいては貰えなかったのだなぁと、しみじみ思う。