風と、光と・・・

すべての人を照らすまことの光があって、世にきた。(ヨハネによる福音書1:9)

聖霊があなたに降り、いと高き方の力があなたを包む(待降節第2主日礼拝説教より)

マリアは天使に言った。「どうして、そのようなことがありえましょうか。わたしは男の人を知りませんのに。」
天使は答えた。「聖霊があなたに降り、いと高き方の力があなたを包む。だから、生まれる子は聖なる者、神の子と呼ばれる。あなたの親類のエリサベトも、年をとっているが、男の子を身ごもっている。不妊の女と言われていたのに、もう六か月になっている。神にできないことは何一つない。」
マリアは言った。「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように。」
そこで、天使は去って行った。(ルカによる福音書1:34~38)

ユダヤの北の方、ガリラヤのナザレという町に住むマリヤという女性のもとに、天使が神から遣わされてきました。
天使はマリヤに、男の子を産むこと、その子はいと高き者の子、神の子であること、その子は神の民を治める永遠の王であることを告げました。

マリヤは天使に尋ねます。
「それはどのようにして起こるのでしょうか。わたしはまだ男の人を知りませんのに。」

一体どのようにしてそんなあり得ないことが起こるのか。天使は答えます。
聖霊があなたに臨み、いと高き者の力があなたを覆う(包む)でしょう。」聖霊なる神ご自身がマリヤに働きかけるのです。
神は、共に生きていきたいと願ってわたしたちの命を造られた方、人が罪を犯してなお愛し抜いてくださる方、わたしたちを救うために御業をなし続けてくださる方。その神が救い主を世に遣わすためにマリヤを選んだのです。

天使は告げます。
「あなたの親族エリサベツも老年ながら子を宿しています。不妊の女といわれていたのに、はや6ヶ月になっています。」
「神には、なんでもできないことはありません。」
わたしたちは聖書を通して「神は全能である」と信じています。一応信じていますが、わたしたちはしばしば「全能」に制限をかけます。わたしたちは無理だと思い、期待しないでおこうとすること、あるいはこんなことはあり得ないと判断することが多々あります。信仰にも建て前と本音が現れます。
けれど、天使ははっきりと宣言します。「神には、なんでもできないことはありません。」

そしてマリヤは答えます。
「わたしは主のはしためです。」
「お言葉どおりこの身に成りますように。」
はしためというのは、女奴隷のことです。奴隷は、主人の意志に従います。
主なる神に従う信仰を表す言葉として、聖書にはしもべ、奴隷という言葉が使われます。
困惑するばかりのお告げなのに、神ご自身が御業をなさる、神にはできないことはない、と天使に告げられると、マリヤはそれを受け入れるのです。マリヤはここで神の御心を受け入れ、担っていく決断をしたのです。

神の御心には、出エジプトの際に立てられたモーセでさえひるみました。
モーセは言います。「わたしは一体何者でしょう。」(出エジプト3:11)
「ああ主よ、わたしは・・言葉の人ではありません。わたしは口も重く、舌も重いのです。」(4:10)
「ああ主よ、どうか他の適当な人をお遣わしください。」(4:13)
そしてモーセは神に叱られるのです。
「そこで主は、モーセに向かって怒りを発して言われた」(4:14)と聖書は記しています。
預言者エレミヤもまた主の召し、その御心にひるみました。
「ああ主なる神よ、わたしはただ若者にすぎず、どのように語ってよいか知りません。」(エレミヤ1:6)
それなのにまだ20歳前だと思われる女性が、神の御心を受け入れ従おうとして、自分自身を神の御前に差し出し、献げていくのです。

実に、わたしたちは罪のゆえに神の思い、考え方に共感することが困難になっています。
この神の選びは私達人間にとって迷惑以外の何ものでもありません。マリヤはヨセフの許嫁でした。当時ユダヤでは12歳から結婚できると考えられていましたから、マリヤはまだ20歳前ではないかと思われます。二人は1年間は親元で暮らし、二人での生活の準備をしていきます。マリヤもヨセフも新しい生活に夢膨らませていたでしょう。
それが、この天使の告知です。現にマタイによる福音書では「夫ヨセフは正しい人であったので、彼女のことが公になることを好まず、ひそかに離縁しようと決心した。」(1:19)と書かれています。
この神の選びは、若い二人の未来を揺るがすものでした。
しかし、マリヤは困ったり、嘆いたりしないのです。
マリヤは答えます。
「わたしは主のはしためです。お言葉どおりこの身に成りますように。」
マリヤは神を信頼しています。命を造り、人生を導かれる神を信頼しています。神が救いの業をなしてくださることを信じています。神が自分の人生に責任を持って良きことをなしてくださることを信じているのです。

ここに神の召しを受けた者の姿があります。
そしてわたしたちも神の召しを受け、信仰へと招かれました。
信じられるものが何もないように思われるこの世の中にあって、なお罪の世を愛し、ひとり子を賜うほどに私達を愛される神を信じて生きるように召されたのです。
神は「わたしはあなたの名を呼ぶ」(イザヤ43:1)と言われます。わたしたちは神に名を呼ばれてここにいるのです。
そして神の御心に従って、わたしたち一人ひとりにも神の務めが与えられています。
それは、わたしたちの願いや期待とは違っているかもしれない。
しかし、神ご自身、聖霊なる神ご自身がわたしたちに臨み、包んで、救いの業、恵みの業をなしてくださるのです。
「らくだが針の穴を通る方がやさしい」(18:25)と言われる救いの業を、神はなしてくださるお方。「人にはできないが、神にはできる」(18:27)「神にはできないことはない」のです。
その全能の力を、神はわたしたちの救いのために用いてくださる。

わたしたちは神を信じることができるのです。
神に、命を、人生を委ねることができるのです。この方が救いの業をなしてくださり、わたしたちに永遠の命と未来を与えてくださるからです。

だから、わたしたちもマリヤと共に応えることができます。
「わたしは、主のしもべ、はしためです。お言葉どおりこの身に成りますように。」