風と、光と・・・

すべての人を照らすまことの光があって、世にきた。(ヨハネによる福音書1:9)

葛原妙子25

寺院シャルトルの薔薇窓をみて死にたきはこころ虔しきためにはあらず『薔薇窓』
第四歌集『薔薇窓』の後書きである「『薔薇窓』について」には次のような文章が記されている。

 こころ虔しきためにはあらずーの歌は、一生のうちにこの美の極致をみたい、といふ一耽美者の悲願として、信仰などとは無緣なのだと呟いてゐるやうにもきこえる。
 だが作歌當時の私はまだみぬシャルトル寺院の大きな目、薔薇窓について獨斷をしたのであつた。この薔薇窓のおそるべき美しさは人間の輝く罪過のしるしであろうと。これを仰ぎ、この下をくぐりぬける者はたぶん心虔しからぬ者に限るのであらうと。
(『薔薇窓』後書き「『薔薇窓』について」より)

この文章から分かることは、「寺院シャルトルの」の歌を作った時、妙子が「これを仰ぎ、この下をくぐりぬける者はたぶんこころ虔しからぬ者に限るのであらう」と独断したのだ、ということである。二段落目の冒頭の「だが」で、「この歌には、私(妙子)の信仰心については詠んでいないのだ」と言っているのが分かる。

『薔薇窓』のこの歌に『飛行』の次のような歌を対比させてみると、葛原妙子が信仰をどのように捉えていたか、妙子の信仰が何処にあったかが分かるように思うのだが・・。

聖水とパンと燃えゐるらふそくとわれのうちなる小さき聖壇『飛行』



特記
この記事はカトリックの信仰を批判、否定するために書かれたものではありません。
私の所属する教会は「使徒信条」の中で「公同の教会、聖徒の交わりを信じます」と告白しています。カトリック教会はこの「公同の教会」に入っています。