風と、光と・・・

すべての人を照らすまことの光があって、世にきた。(ヨハネによる福音書1:9)

神のなき世に

黄昏が静かに星を産む刻に深く祈りぬ神のなき世に
                    柳澤桂子 歌集『萩』より

歌集であることを意識して私が初めて手にしたのは、柳澤桂子さんの『いのちの声』だった。けれど、どうして柳澤さんの短歌を知ることになったのかは覚えていない。それほど遠い過去ではないはずなのに、不思議なことだ。

柳澤さんには『いのちの日記 神の前に、神とともに、神なしに生きる』という著作があるようだ。私はこの本を読んでいないので、どういった経緯でこのタイトルが付けられたのかは知らないのだが、この「神の前で、神と共に、神なしに生きる」というのは、ナチスによって処刑され39でこの世を去ったドイツの牧師ディートリッヒ・ボンヘッファーの有名な言葉だ。

ボンヘッファーについては詳しく学んだわけではないので、私にはその思想の解説はできないけれど、震災後の今の日本にとって、これほど必要な言葉はないのではないかと思う。柳澤さんの短歌とボンヘッファーのこの言葉から、私が思うところを以下に書いてみたい。


祈ったところで奇跡など起こることのない世界に私達は生きている。震災の後の原発の問題にしても、私達が祈ったからといって、どこかからスーパーマンのように神が現れて全てを解決してくれるわけではない。私達は自分達の力でどうにかして生きていかなければならないのだ。

けれど、神はいないと心の底から思う世界の中で私達は生きていけるのだろうか、と私は思う。心のどこかで正しいもの、善なるもの、真実なものをわずかでも希求することができなければ生きてはいられないのではないか。少なくとも私には生きていくことはできない。
私の思い描くものとは違ったとしても、この世界は、私の思考をはるかに超えたものの秩序の中にあると思えなければ、問題に対峙して生きていくことはできないと思う。
現実がどんなに混沌としていようと、実際的な事柄が何も解決されていかなかろうと、この世界を秩序をもって治めている者が確かに存在すると信じるときに絶望することなく生きていくことができるのではないか、と私は思う。

だから、神はいないと思える世界にあって、それでも祈るのだ。神はいないと思える世界の中で、神と共に神の前で生きるのだ。

神はまた人の心に永遠を思う思いを授けられた。それでもなお、人は神のなされるわざを初めから終りまで見きわめることはできない。(伝道の書3:11)

神である方、天を創造し、地を形づくり 造り上げて、固く据えられた方
混沌として創造されたのではなく 人の住む所として形づくられた方
                      (イザヤ書45:18)

「わたしはある。わたしはあるという者だ」(出エジプト記3:14)


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