風と、光と・・・

すべての人を照らすまことの光があって、世にきた。(ヨハネによる福音書1:9)

聖書研究で(マルコ福音書から出エジプト記へ)

11月の聖書研究は難解なところだった。
マルコによる福音書4章11節、12節。
そこで、イエスは言われた。「あなたがたには神の国の秘密が打ち明けられているが、外の人々には、すべてがたとえで示される。それは、
『彼らが見るには見るが、認めず、聞くには聞くが、理解できず、こうして、立ち帰って赦されることがない』ようになるためである。」(新共同訳)

すべての訳を記載するのは難しいので新共同訳のものを引用することにする。
二重括弧の中は、旧約聖書イザヤ書の言葉をイエスが引用した部分で、次のように記されている。
主は言われた。「行け、この民に言うがよい よく聞け、しかし理解するな よく見よ、しかし悟るな、と。この民の心をかたくなにし 耳を鈍く、目を暗くせよ。目で見ることなく、耳で聞くことなく その心で理解することなく 悔い改めていやされることのないために。」(イザヤ書6:9〜10)
これはいったいどうしたことかと思ってしまう。神はイザヤを民の元へ遣わす時に、「聞け、しかし理解するな」と言いなさい、と言っているのだ。そして、さらに「あなたは民の耳を鈍く、目を暗くせよ」と言うのだ。では何のために預言者イザヤは民に語る勤めを与えられたのか、と思ってしまう。語るからには、理解してもらいたいと思うのが普通ではないか、それを神は「理解させるな」と言われるのだ。私達人間の頭では、この展開は全く理解できない内容ではないかと思われる。


この会の中で、牧師は「この箇所を読んで、出エジプトの際の、神がファラオの心を頑なにされたという場面を思い浮かべた」と言った。実は私もその箇所を思い浮かべていたのだが・・。

出エジプトというのは、神がモーセを用いてイスラエルの民を奴隷状態であったエジプトから出国させた時のことをいうのだが、この時、民が出て行くことを一旦は許可したエジプトの王ファラオが心を翻して何度も阻む。ここのところで神は「わたしはファラオの心をかたくなにするので、・・ファラオはあなたたちの言うことを聞かない」(出エジプト7:3〜4)、と言っているのだ。神はモーセに「イスラエルの民をエジプトから導き出せ」と命じておいて、ファラオの心を頑なにして神自ら出国を阻んでいるかのようだ。いったいどうなってるの?と首を傾げたくなるような場面である。

この時、長老の一人が「神がファラオの心を頑なにしたのには、どういう意義があったんでしょう」と尋ねた。牧師は、「ぼくは、ファラオのためだと思うんですよね」と言った。ファラオは心を頑なにしたために、最後は神によって自分の息子(王子)をも撃たれてしまう。自分のせいで多くの命が失われた。しかし、どんなに悔やんでも失われた命は取り返すことが出来ない。その自分の罪の大きさに気付くために、罪の大きさに気付いて立ち帰るために、と。

ところで私は、モーセのほうに視点を当ててここのところを見ていた。
神はモーセを用いて出国させようとしたが、「その背後には常に神ご自身がいるのだ」ということをモーセと民に分からせるためではなかったか、と。引用したイザヤ書も同じように読み取れるように思う。ここでは、神の臨在と権能の大きさが示されているのではないかと。

聖書にはファラオについて、「わたしがあなたを立てたのは、あなたによってわたしの力を現し、わたしの名を全世界に告げ知らせるためである」と書いてあります。このように、神は御自分が憐れみたいと思う者を憐れみ、かたくなにしたいと思う者をかたくなにされるのです。(ローマの信徒への手紙9:17〜18)

けれど、キリストは死んで陰府(よみ)にまで降られたというのだから、「ファラオに立ち帰る機会を与えるためだ」という牧師の説は、私達の思考を遙かに超えて真実かもしれない、と思う。

死んだ者にも福音が告げ知らされたのは、彼らが、人間の見方からすれば、肉において裁かれて死んだようでも、神との関係で、霊において生きるようになるためなのです。(ペトロの第一の手紙4:6)
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