風と、光と・・・

すべての人を照らすまことの光があって、世にきた。(ヨハネによる福音書1:9)

葛原妙子2

藭殿の稲妻ならねラジウムのアルファ・ベーター・ガンマー放射線(レイ) 「鷹の井戸」
葛原妙子のこの短歌の「ね」は、断定の助動詞「なり」の未然形についた打ち消しの助動詞「ず」の已然形だろうから、この後には「ども」か「ば」が省略されている。けれど、「ば」が省略されていると考えたのでは歌の内容的に辻褄が合わない気がする。そこで、「ども」が省略されていると考える。
つまり、「神殿の稲妻ではないけれども、ラジウムのアルファ・ベーター・ガンマー放射線は・・」と言っているのだろうが、「神殿の稲妻ならず」と打ち消した後に「けれども」と接続させることで、却って「神殿の稲妻」を際立たせているように思う。

外科医の妻だった妙子は、レントゲンに関するこんな歌も作っている。
レントゲン線密室に放射せり雨後の雲高くありし眞晝を 『原牛』

しかし又、妙子には次のような歌もある。
かの鄢き翼掩ひしひろしまに觸れ得ずひろしまを犧(にへ)として生きしなれば 『原牛』


冒頭の歌が載っている『鷹の井戸』という歌集は妙子が70歳の年に出版されたものだから、この歌が作られた時までに聖書を十分読んでいたであろうことは推測できる。つまり、聖書の中の次のような言葉も読んでいた可能性はあるだろうと。

見よ、御座が天に設けられており、その御座にいますかたがあった。・・。御座からは、いなずまと、もろもろの声と、雷鳴とが、発していた。(ヨハネ黙示録4:2,5)

しかし又、この歌のある「朝の鴉」の項にはギリシアの神々の歌も多く、古代神殿の廃墟を詠ったものもあるから、ギリシアの神々の神殿であるかも知れない。

いずれにしても、原子力というものは神の領域に属するものだと妙子も考えていたのではないかと私は思う。神のものは神に返さなければならない。

下は、私の拙い歌。
原子力手中に収むるは自由なれど 神は置きたり真中に果実を

藭殿=神殿
鄢き=黒き