風と、光と・・・

すべての人を照らすまことの光があって、世にきた。(ヨハネによる福音書1:9)

葛原妙子1

宙空(ちゅうくう)の虹はキリスト 枝先に黙(もだ)してかかる木の葉の如き

この歌は、葛原妙子の次の短歌を本歌として作ったものだ。
十字架に頭(かしら)垂れたるキリストは鄢き木の葉のごとく掛かりぬ 『縄文』


葛原妙子という人は、死の数ヶ月前にカトリックの洗礼を受けたと言われている。洗礼を受けるまでの長い創作活動の中で、キリストやキリスト教に関する短歌を多く作っているが、一つ一つの短歌が信仰心を持って作られたものか否かということが、昨今話題になっているようだ。
私は、この短歌に関しては、ここから信仰心が読み取れるとは思わない。が、キリストの一面の真実の姿を捉えているとは思う。すなわち、十字架上で処刑される無力なまでのキリストの姿を、黒い木の葉に喩えて描き出しているということだ。
キリストが徹底的に無力なままで処刑されるのでなければ、私たちに救いはない。この無力なまでに従順な御子の死の後に神は復活を与えられたのであるから。妙子がこの短歌を作った時点でキリスト教についてそこまでを理解していたかどうかは分からないが・・。


しかし、イエスは大声を出して息を引き取られた。すると、神殿の垂れ幕が上から下まで真っ二つに裂けた。百人隊長がイエスの方を向いて、そばに立っていた。そして・・、「本当に、この人は神の子だった」と言った。(マルコによる福音書15:37〜39)

キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。このため、神はキリストを高く上げ、あらゆる名にまさる名をお与えになりました。(フィリピの信徒への手紙2:6〜9)

鄢き=黒き