ドストエフスキー『罪と罰』 の検索結果:
…「ソーニャを・・ー ドストエフスキー『罪と罰』」で私は、「ドストエフスキーはソーニャをキリストとして描いていると考えて」きた。「しかし、ドストエフスキーはソーニャをキリストとして描きながら、一方でキリストではない私たちと等しい人間としても描いているのではないかと思い始めていた」と書いた。 そして、さらに、「さて、このように考えると、「受イエス・キリスト」という出来事は私たちにも起こりうるということである」とも書いたのだった。 で、聞いておると、私のソーニャが(あれは口答えをし…
ある教会に電話をすると、「この電話は迷惑電話防止のために録音をしています」と設定された声が先ず聞こえてきた。 教会で、迷惑電話防止のために録音をするというのは、どういうことだろうか? 病む人の心の悲鳴響かせて非通知電話鳴る午前4時 睡眠は確保しなくてはいけないから、夜間の電話は鳴らないように設定するということはある。しかし教会という所は、ちょっと話を聞いて欲しいとやってきた人が2時間3時間話して最終的にお金の無心だったというようなことが一度や二度でなくある場所なのである。そう…
…「ソーニャ 2 − ドストエフスキー『罪と罰』」で、「カチェーリナについてのこの洞察、理解と受容、これはやはりソーニャをキリストとして描いているか、あるいはキリストに憑依された人間として描いているかのどちらかとしか言いようがないだろう」と書いた。 また、「「ラザロの復活」とソーニャ− ドストエフスキー『罪と罰』26」では、「ここでは、ラスコーリニコフがソーニャのことを「ユロージヴァヤ(聖痴愚)」だと考えていたということが言われているのだが、ラスコーリニコフの捉えがそのままドス…
…だことがあった。 「ドストエフスキー『罪と罰』32 」で、共産主義的な新思想の持ち主レベジャートニコフについて書いたのだが、この登場人物も、スヴィドリガイロフが自死の前にソーニャを解放したと同じようにソーニャを助けたということができる。 つまりドストエフスキーは、共産主義的な思想の持ち主を批判的に描きながら、その人物にキリストを助けさせていると言える。ソーニャがキリストとして描かれているとするなら、だが。 ここにも「踏み越え」ということが表れていると私には思える。あらゆる境界…
江川卓=訳、ドストエフスキー=作『罪と罰』(岩波文庫)について 自分の不幸に囚われている者は、周りの人間は皆自分より幸せに生きていると思い込んでいる。 自分の苦しみにばかり捕らわれている者は、肉体を持ってこの世に来られた神の子キリストの苦しみに思い至ることはないだろう、たとえキリスト教徒であったとしても。 自分の苦しみにばかり捕らわれている者にとっては、その苦しみは絵空事でしかない。
… ユダは死んだ。 「ドストエフスキー『罪と罰』22」で私は、「キリストはユダが…。というより、イエスを裏切って生き続けていくことは困難だということを分かっておられたのだと思う」と書いた。 そう考えるなら、なお生きてゆくということがどれほど過酷なことであるかが分かるように思う。 あの人の言う通り 私の手は汚れてゆくのでしょう 追い風に翻り わたしはまだ生きてゆくでしょう 『カムパネルラ』 『沈黙』のキチジローを思い浮かべた。 黄昏を振り返り その度 過ちを知るでしょう 『カムパ…
智恵や叡智を表す「ソフィア(Sofia)」は、ロシア語では「София(Sofiya)」と表記するようである。そのためか、岩波文庫の江川訳『罪と罰』では、ソーニャを「ソフィヤ・セミョーノヴナ・マルメラードワ」としている。 お察しのとおり、ソーニャは、教育はまるで受けませんでした。四年ほど前でしたか、私が地理と万国史を教えにかかったんですが、私自身だいぶ怪しいうえにちゃんとした参考書もなかったりで。(岩波文庫『罪と罰 上』p40) たんすの上に一冊の本がのっていた。そのそばを行…
あなたにあげるのはあのひとにあげるのと同じことなんです。それにあなたは、リッペヴェフゼリ夫人に借金を払うと約束された、私は聞きましたよ。どうして、ソフィヤ・セミョーノヴナ、あなたはそんなふうに考えもなく、そんな約束だの義務だのを背負いこまれるのです?あのドイツ女に借金があったのはカチェリーナ・イワーノヴナで、あなたじゃない。あなたはあんなドイツ女なんぞ、知ったことじゃなかったんです。そんなふうじゃ、世の中を渡っていけませんよ。(岩波文庫『罪と罰 下』p306~307) ここは…
…続けようと思う。 「ドストエフスキー『罪と罰』33」で『カラマーゾフの兄弟』のスメルジャコフについて書いていて、イワンの台詞が気になった。 「おい、お前は不幸な、卑しむべき人間だな! 俺がいまだにまだお前を殺さずにきたのは、明日の法廷で答えさせるためにとっておくんだってことが、お前にはわからないのか。神さまが見ていらっしゃる」イワンは片手をあげた。(略) イワンは荘重に力強くこう言い放った。光りかがやくその眼差しだけからも、きっとそうなることは明らかだった。 「あなたはご病気…
もう何年になるだろう、ずっと以前から、彼は心とろける思いで結婚のことを夢にえがき、それでもこつこつと金をためることに専心して、時節を待っていた。彼は心の奥底に秘めかくすようにしながら、品行がよくて貧乏な(ぜったいに貧乏でなければいけない)、ひじょうに若く、ひじょうに美しい、上品で教養のある、ひどくおびえやすい娘、人生の不幸という不幸を味わいつくして、彼には頭もあがらぬような、生涯、彼だけを自分の救い主と考えて、彼だけをうやまい、彼だけに服従し、彼ひとりだけを賛嘆のまなざしで見…
まだ田舎にいるうちからルージンは、かつて後見をしてやったレベジャートニコフが、いまは若手の進歩派のちゃきちゃきとして、よく話題にのぼる現実ばなれした一部のサークルで羽ぶりをきかせている噂を聞きこんでいた。この噂はルージンをおどろかせた。ほかでもない、なんでも知っており、なんでも軽蔑し、なんでもあばきたてる、この種のこわいもの知らずのサークルにたいして、ルージンはもう以前から、一種特別の、とはいえまったくつかみどころのない恐怖心を抱いていたのである。(略)彼はみなと同じように、…
…いるということは、「ドストエフスキー『罪と罰』29 」でも書いた。 ここに先立つp266のソーニャに向かって語られたラスコーリニコフの言葉「みんながあなたひとりの肩にかかってきたじゃありませんか」の「みんな」も「あのひとたち」と同じ、カチェーリーナとその連れ子ポーレチカ、リードチカ、コーリャのことであろう。 つまり、ソーニャを自殺や発狂から引き留めているのはカチェリーナとポーレチカ、リードチカ、コーリャであり、ソーニャにおぶさっているのもカチェリーナとポーレチカ、リードチカ、…
ポーレチカ、リードチカ、コーリャというのは、ソーニャにとっての継母カチェリーナの連れ子である。 一番上のポーレチカはマルメラードフの臨終に際して、ソーニャを呼びに行くようにカチェリーナから命じられる。 「ポーリャ!」とカチェリーナが叫んだ。「ソーニャのとこへ行って来ておくれ、いそいで。もし家にいなくてもね、お父さんが馬車にひかれたから・・・・・帰ったらすぐ来るようにって言ってくるんだよ。大急ぎでね、ポーリャ! さ、このプラトックをかぶっておいで!」 「いっちょけんめい走ってよ…
しかし、それにしても、こうした性格をもち、まがりなりにも教育を受けているソーニャが、けっしてこのままの状態にとどまっていられないだろうことも、彼には明らかだった。やはり彼は、ひとつの疑問をふっきれない ーー なぜ彼女はこんなにも長い間、こうした境遇にとどまりながら、水に飛びこむだけの勇気はなかったとしても、どうして発狂しないでいられたのか? もちろん、彼は、いまの社会では、ソーニャの境遇が、不幸なことに、けっして特殊な、例外的な現象とは言えぬまでも、やはり偶然的な現象にちがい…
「求めよ、さらば与えられん」というイエスの言葉は聖書の中でもあまりにも有名な言葉だろうと思うが、これについて記されたルカによる福音書の方では以下のように続いている。 そこで、私は言っておく。求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。叩きなさい。そうすれば、開かれる。誰でも求める者は受け、探す者は見つけ、叩く者には開かれる。あなたがたの中に、魚を欲しがる子どもに、魚の代わりに蛇を与える父親がいるだろうか。また、卵を欲しがるのに、さそりを与える父親がい…
・・・・・ふいに彼は、すばやく身をかがめると、床の上につっ伏して、彼女の足に接吻した。ソーニャはぎょっとして、相手が狂人ででもあるかのように、思わず身をひいた。事実、彼は正真正銘の狂人に見えた。 「どうなさったんです。どうしてこんなことを? わたしなんかに!」彼女は色青ざめてつぶやいた。と、ふいに心臓が痛いほどしめつけられた。 彼はすぐさま起きあがった。 「ぼくはきみにひざまずいたんじゃない。人類のすべての苦悩の前にひざまずいたんだ」なぜか荒々しくこう口にすると、彼は窓ぎわに…
兄はひとりきりではない。彼女、ソーニャのもとへ、兄は最初に懺悔にやってきた。兄は人間が必要となったとき、彼女のなかに人間を求めた。彼女は、運命のみちびくまま、どこへでも兄の後について行くにちがいない。(岩波文庫『罪と罰 下』p350) やはりこの言葉は、この言葉だけで記しておきたい。
「グリム童話『手なし娘』とソーニャ 」で私は、「この『手なし娘』に象徴されているのは、《徹底した無力》であろうと思われる」と書いた。そして、「ソーニャから思い浮かべたのは、この『手なし娘』であった」とも記した。 この《徹底した無力》は、十字架上のキリストにおいて極まっていると言える。 義なるわがしもべはその知識によって、多くの人を義とし、また彼らの不義を負う。それゆえ、わたしは彼に大いなる者と共に物を分かち取らせる。彼は強い者と共に獲物を分かち取る。これは彼が死にいたるまで、…
「ぼくは用事を話しにきたんだ」ラスコーリニコフが、突然、顔をしかめて、大声に口をきり、立ちあがって、ソーニャに近づいた。(略) 「ぼくは今日、肉親を捨てたんだよ」と彼は言った。「母親と妹をね。もう、ふたりのところへは行かないんだ。あそこできっぱりと縁を切ってきた」 「なぜです?」ソーニャは呆気にとられたようにたずねた。(略) 「いま、ぼくにはきみひとりしかいない」と彼はつづけた。「いっしょに行こう・・・・・ぼくはきみのところへ来たんだ。ふたりとも呪われた同士だ、だからいっしょ…
と、人込みのなかから、音もなくおずおずと、ひとりの娘がぬけ出てきた。貧困と、ぼろと、死と絶望に包まれたこの部屋には、彼女の突然の出現は奇異にさえ感ぜられた。彼女の着ているものもぼろにはちがいなかった。いかにも安っぽい身なりにちがいなかった。だがその服は、ある特殊な世界におのずとできあがっている趣味や法則を映して、いかにも下品でけばけばしく、いやしい目的をあまりにも露骨に見せつけていた。ソーニャは入口の敷居の上で立ちどまったが、その敷居をまたごうとはせず、途方にくれたようにあた…
『罪と罰』の中で、ソーニャがラザロの復活を記した聖書個所を朗読する場面があって、それについて書こうと思っていたのだが、最近夫が買ってきた本の中にその場面について言及しているところがあったので最初に引用させて頂こうと思う。 以下の引用は削除して、少し書き換えました。
ここまでくれば、ラスコーリニコフの意識における「プレストゥプレーニエ」、人間の掟をふみ越える「新しい一歩」とは、たんに高利貸の老婆に対する殺人行為だけを意味したのではなく、より広範な社会的、哲学的意味、マルメラードフの言う「どこへも行き場のない」状況の中での反逆の一歩をも意味していたことが、おのずからあきらかになるだろう。(岩波文庫『罪と罰 下』江川卓=文「解説」より) 「ふみ越え」とともに、『罪と罰』においては、この「行き場」という言葉が一つの鍵となっているように思われる。…
…ーニャについて − ドストエフスキー『罪と罰』7」でも引用して書いた。 そこで引用したのは、ラスコーリニコフとソーニャの「ふみ越え」の違いを記したものであった。 ここで引用した続きに記されている江川氏の言葉を私は略した。略した後に記されているのが、「こうして長編のシンボリカも完成する」である。 江川氏の、「宗教的主題、つまりはドストエフスキーの文学的作品世界を支える強固な土台になっていた」というのが具体的にどういうことなのかは私にははっきりとは分からない。江川氏の捉えと私の捉…
「罪の重荷をイエス君にぞ、われはことごと任せまつる」(讃美歌269番) こんな歌詞がやたらと身に沁みるときがある。 良かれと思ってやったことが裏目に出る。『罪と罰』にはそういうことが描かれているように思う。 マルメラードフは、幼い子どもを抱えて苦労している未亡人のカチェリーナを見るに見かねて結婚を申し込む。けれど、幸せにする力もないものだから、一人娘ソーニャを不幸の巻き添えにしてしまう。 主人公のラスコーリニコフは、自分のために身売り同然の結婚を妹にさせないために貧しさから抜…
ソーニャも急に椅子から立ちあがり、おびえた目で彼を見つめた。彼女は何か言うことがあり、何かたずねることがあるような気がしたが、それがなかなか口に出なかった。それに、どういうふうに切りだしたものか、わからなかった。「どうして・・・・・どうしてまた、こんな雨のなかをお出かけになりますの?」「なに、アメリカまでいこうという人間が、雨をこわがっていたのではね、へ、へ!じゃ、ごきげんよう、ソフィヤ・セミョーノヴナ! いつまでも、いつまでも元気に暮らしてください、あなたはほかの人の役に立…
ヤコブは、「わたしは顔と顔とを合わせて神を見たのに、なお生きている」と言って、その場所をペヌエル(神の顔)と名付けた。(創世記32:31 新共同訳) ギデオンは、この方が主の御使いであることを悟った。ギデオンは言った。「ああ、主なる神よ。わたしは、なんと顔と顔を合わせて主の御使いを見てしまいました。」主は彼に言われた。「安心せよ。恐れるな。あなたが死ぬことはない。」(士師記6:22,23) 神は続けて言われた。「わたしはあなたの父の神である。アブラハムの神、イサクの神、ヤコブ…
彼はちらりとすばやく彼女を見やると、ひとことも言わず、目を伏せて地面を見つめた、彼らはふたりだけで、だれも見ているものがなかった。看守もそのときは後ろを向いていた。 どうしてそうなったのか、彼は自分でも知らなかった。ただ、ふいに何かが彼をつかんで、彼女の足もとに身を投げさせた。彼は泣きながら、彼女の両膝を抱えた。(岩波文庫『罪と罰 下』p400~401) 私たちは、今は、鏡におぼろに映ったものを見ていますが、その時には、顔と顔とを合わせて見ることになります。私は、今は一部分し…
終活で本を片付けていかなければと言いながらまたこんな本を買ってきて、と思いながら、夫の買ってきた文庫本をちらちら捲っていた。すると、「レヴィナス」が目に入った。 以下に一頁にまとめられた「レヴィナス すべてを絶対的他者に与えること」を全文引用させて頂く。 レヴィナスすべてを絶対的他者に与えること やましいことがあるとき、誰かにじっと見られるとどきどきします。銃殺刑に処される者に目隠しをするのは、射手が相手の目を見ながらだと引き金を引くことはできないからだと言われます。 路傍の…
…に接吻なさい」 − ドストエフスキー『罪と罰』13 」でも書いたのだが、ソーニャの語るこの言葉のラスコーリニコフの受け止めがずれていると思われるのだが、ソーニャの使っている「苦しむ」という言葉も二方向に使い分けられているように思う。 ここでソーニャが勧めているのは、直接的な自首ではないだろう。しかしラスコーリニコフはソーニャの言葉を「自首すること」と受け取る。そして自首はしないとラスコーリニコフが答えると、ソーニャは「苦しむことになるわ、苦しむことに」と言い、「そんな苦しみを…
…ィドリガイロフ - ドストエフスキー『罪と罰』14 」で、「スヴィドリガイロフを中心に描かれているのは『愛と自由』ということだろう」と書いたのだが、このことはドゥーニャの側からも言えることだろうと思う。 ドゥーニャは兄ラスコーリニコフのことを思い、ルージンとの意に染まぬ結婚を決意するのである。その事を知らせる母からの手紙を読んで、ラスコーリニコフは心の中で悪態をつく。 アヴドーチヤお嬢さん、きみのお嫁入り先は、実務家の合理主義者ってわけだ。財産もあり(もうご自分の財産をおもち…