この本の巻末にある「パーソナリティ自己診断シート(DSM-Ⅳに準拠)」で、回避性パーソナリティ障害の項にはチェックが入らなかったのだが、中を読んでいると、こういうのとても良く分かると思えるところがあった。
ある患者さんがこんなエピソードを話してくれたことがある。
公園に出かけたらサルの檻があった。中を覗くと、可愛い小ザルがいた。たまたまバナナを持っていたので、バナナを上げた。ところが、うちに帰ってから、消化不良でも起こしていないか心配になってきた。子ザルが死んでしまったらどうしようとも思う。こんなに心配するのなら、最初からバナナなんか上げなければよかったのにと思ったという。
(略)
余計なことをして、死んでしまうような重大なことになるくらいなら、何もしないほうがましだと思ってしまう。それで、必要最小限のことだけすることになるという。(『パーソナリティ障害』「回避性パーソナリティ障害」より)
何か行動を起こす前にも、悪い結果を予想して止めてしまったりとか・・。
チェックシートにチェックが入らなくても中を読むと当てはまるという場合が結構ある。
「妄想性パーソナリティ障害」の項にもチェックは一つも入らなかったのだが・・、
妄想性パーソナリティ障害の根元には、父親を求める気持ちがある。父親は強く、びくともしない存在でなければならない。当人の揺さぶりに対して、慌てることはもっともいけないことだ。毅然とした態度で、威厳を失わない接し方が大切である。謝罪するときも、弱さを見せる態度ではなく、堂々とした態度で誠実に謝ることだろう。
逃げ腰になって背中を見せることは、危険である。当人を失望させるような振る舞いは、逆に当人を逆上させる。
(略)
こうした権力志向は、先にも書いたように、多くの場合、父親に愛されなかった、あるいは恐れていたことに由来している。愛という不確かで手に入らないものの代わりに、もっとも信用の置けるものとして、秩序や階級、法というものに関心を示したり、そうした分野に活躍の場を見出すことも多い。(『パーソナリティ障害』「妄想性パーソナリティ障害」)
母は私にとって父親的存在だったが、母子家庭で育った私はやはり父的存在を求めていた。
神を求める思いというのは、「秩序」を求める思いに等しい。
「妄想性パーソナリティ障害」のところには「信じられない人々」というタイトルがつけられていて、その出だしは「妄想性パーソナリティ障害の人は、人を心から信じることができない」と始まる。
私は、逃げ腰になって背中を見せる人を逆上して追いかけることなど実際にはしないが、人を心から信じるというようなことも、しない!(笑)。
秩序愛と気配り能力を活かせ
このタイプの人が示す猜疑心や他人の行動の裏まで読み取ろうとする傾向は、同時に、このタイプの人が持つ他者の気持ちを鋭敏に察知し、気配りする能力に通じる。余り親密でないニュートラルな関係では、こうした力がうまく活かされることも多い。
(略)
このタイプの人は、非常に反抗的ともなりうるが、同時に、強い忠誠心を抱く。それは、父親を求める気持ちに由来している。この忠誠心は、仕える相手さえ間違わなければ、一つの長所、美点となり、厚い信頼を勝ちうる。その意味でも、法律や政治的な分野に、適性を持つといえる。しかし、同時に、こうした適正や志向の背後にあるものを、当人も、人々も頭の片隅に置いておく必要がある。(『パーソナリティ障害』「妄想性パーソナリティ障害」より)
江藤淳は、小林秀雄を(略)「父の役割」を演じることを強いられていたと論じている。(抜粋) https://t.co/6YTvwHeOl5
— 猫祐物語 (@syodainekosuke) 2022年7月22日