だれが、キリストの愛から私たちを離れさせるのか。患難か、苦悩か、迫害か、飢えか、裸か、危難か、剣か。
わたしは確信する。死も、生も、天使も支配者も、現在のものも将来のものも、力あるものも、高いものも深いものも、その他どんな被造物も、わたしたちの主キリスト・イエスによって示された神の愛から、私たちを引き離すことはできないのである。(ローマの信徒への手紙8:35,38〜39)
この聖書箇所は夫の愛唱箇所であった。
けれど、初めて新約聖書を読んだ若い時にも、私には印象に残らない箇所だった。
しかし夫が倒れた後、「死も生も・・」と記されたこの箇所を見返して、その言葉の強さに圧倒される思いがした。
「死」によってだけではなく、「生」によっても引き離されないというのだ。
私たちは、キリストを信じていたとしても、生きることに夢中になっているうちに我知らず神から離れてしまっているものだが、キリストの方では私たちを捉え続けている、とパウロは確信している、というのだ。
死に打ち勝たれた方(=イエス・キリスト)の有無を言わせない強さを思う。
しかし、ここでは、パウロが確信しているという方に注目してしまっては駄目なのだと思う。キリストの方に目を向けなくては。