キリスト教がもたらしたのは、「主人」たることを放棄することによって「主人」(主体)たらんとする逆転である。(『日本近代文学の起源』告白という制度)
— 柄谷行人 (@karatani_kojin) 2021年11月16日
2021年11月28日(日) 主日礼拝【待降節第1主日礼拝】
主であるお方が、僕になられた。
祈ります
私たちは、常に先を予想して動こうとします。しかし神様は私たちの予想を超えて動かれます。 主であるお方が、僕になられ、誰も予想しない、誰も期待してもいないことを、神はなしてくださいました。私たちも新しい歌を主に向かって歌えるように、イエス・キリストを見ることができるように、喜びをもたらす神の言葉を常に聞いていきたいと思います。
アーメン
全文は→https://fruktoj-jahurto.hatenablog.com/entry/2021/11/28/212639
上にリンクしたツイッターの柄谷行人の言葉を見ていて、キリスト教徒の本質を言い当てているなぁ、と思っていた。
しかし、昨日代読して頂いた夫の説教を聴いていて、キリスト教徒の本質ではなく、これはキリストそのもののことではないか!と思ったのだった。キリスト教徒はキリストの後に従う者なのだから。
代読して下さった長老の祈りでも、「主であるお方が、僕になられ、」と祈られていて、同じところを聴き取って下さっていたと思い、嬉しかった。