風と、光と・・・

すべての人を照らすまことの光があって、世にきた。(ヨハネによる福音書1:9)

ヨハネによる福音書2章1〜12節の説教を聴いて

三日目に、ガリラヤのカナで婚礼があって、イエスの母がそこにいた。イエスも、その弟子たちも婚礼に招かれた。ぶどう酒が足りなくなったので、母がイエスに、「ぶどう酒がなくなりました」と言った。イエスは母に言われた。「婦人よ、わたしとどんなかかわりがあるのです。わたしの時はまだ来ていません。」しかし、母は召し使いたちに、「この人が何か言いつけたら、そのとおりにしてください」と言った。(ヨハネによる福音書2:1~5)

礼拝の中の聖書朗読でここの部分を聞いていて、ルカによる福音書2章41節からの記事を思い浮かべていた。
エスが12歳になって両親と共にエルサレムへと旅するが、両親が帰途についてもイエスエルサレムの神殿に残っておられた。神殿に引き返してイエスを見つけたマリアが「なぜこんなことをしてくれたのです。御覧なさい。お父さんもわたしも心配して捜していたのです」と言うと、イエスは、「どうしてわたしを捜したのですか。わたしが自分の父の家にいるのは当たり前だということを、知らなかったのですか」と応える。
この箇所の最後には、「母はこれらのことをすべて心に納めていた」(ルカによる福音書2:51)と記されている。

しかし、この時の説教では以下のように語られた。

 ガリラヤのカナという場所で婚礼が行われていました。当時の婚礼は、1週間続く村の一大イベントでした。そこにはイエスも、イエスの弟子たちも、さらにイエスの母もいました。


 おそらく結婚した二人の家はそれほど裕福ではなかったのでしょう。客のために用意したぶどう酒が足りなくなってきました。


 その時イエスの母は、イエスに「ぶどう酒がなくなりました」と告げます。彼女はイエスがこの状況を解決できると期待していたのでしょうか。母の思いは何も書かれていないので分かりません。

 

 イエスは母の言葉に対してあまりにも素っ気なく答えます。「婦人よ、わたしとどんなかかわりがあるのです。わたしの時はまだ来ていません」。


 既にイエスの救い主としての歩みは始まりました。イエスの歩みを導くのは、父なる神の御心です。しかし彼女は、自分の思いを超える父なる神の御心を知っていました。父なる神の御心を受け入れてイエスを生んだ彼女は知っていました。


 そこで彼女は、近くにいた召使いたちに言います。「この人が何か言いつけたら、そのとおりにしてください」。

「そうだった」、と思った。マリアは受け入れがたい神の御心を受け入れた人だったのだ。

ところで私は、こういったイエスが素っ気なく対応されたというような記述を見ると、イエスは実在の人物だったのだろうと思える。

 

 イエスは、水をぶどう酒に変えられました。水は清めのための水でした。清めは、旧約を象徴する行為です。その水がぶどう酒に変わったのです。
  新約でぶどう酒と言えば、聖晩餐のぶどう酒です。ぶどう酒はキリストの血を表すものです。キリストの血はわたしたちの罪を贖い、清めます。神の恵みによっ て新しく生きることの象徴、しるしです。水がぶどう酒に変わったのは、旧約から新約へと変わった、キリストによって救いが成就し、古い契約(旧約)から新 しい契約(新約)に変わったしるしです。
(略)
 イエスは言われます。「しかし、わたしが与える水を飲む者は決して渇かない。わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る」(ヨハネ 4:14)。
 是非、イエスご自身から溢れてくる命の水、祝福のぶどう酒を飲んで、キリストの喜びに満たされて、恵みの中を歩んでいって頂きたいと願っています。

 

盆地に雲充つるけはひ暗黒の葡萄液美しきシャムパンとなるべく 葛原妙子『葡萄木立』

 

説教全文は以下から、

fruktoj-jahurto.hatenablog.com