風と、光と・・・

すべての人を照らすまことの光があって、世にきた。(ヨハネによる福音書1:9)

取り繕うのではなく・・

すると、ふたりの目が開け、自分たちの裸であることがわかったので、いちじくの葉をつづり合わせて、腰に巻いた。彼らは、日の涼しい風の吹くころ、園の中に主なる神の歩まれる音を聞いた。そこで、人とその妻とは主なる神の顔を避けて、園の木の間に身を隠した。主なる神は人に呼びかけて言われた、「あなたはどこにいるのか」。彼は答えた、「園の中であなたの歩まれる音を聞き、わたしは裸だったので、恐れて身を隠したのです」。神は言われた、「あなたが裸であるのを、だれが知らせたのか。食べるなと、命じておいた木から、あなたは取って食べたのか」。(創世記3:7~11)

ここを読むと、罪は、人に「取り繕う」ということをさせる、と思わされる。しかも、ボロ布で。
しかし、どんなに取り繕っても、神の前に罪を隠すことは出来ない。


私たちは、神によって美しい衣を着せかけて頂かねばならない。

主は救いの衣をわたしに着せ 恵みの晴れ着をまとわせてくださる。
花婿のように輝きの冠をかぶらせ 花嫁のように宝石で飾ってくださる。(イザヤ書61:10)

そして、イエス・キリストを身に纏い、キリストの香りを求めなくてはならない。

主イエス・キリストを身にまといなさい。(ローマの信徒への手紙13:14)

神はいつもわたしたちをキリストの凱旋に伴い行き、わたしたちをとおしてキリストを知る知識のかおりを、至る所に放って下さるのである。…。
しかし、わたしたちは、多くの人のように神の言を売物にせず、真心をこめて、神につかわされた者として神のみまえで、キリストにあって語るのである。(コリント人への第二の手紙2:14,17)