風と、光と・・・

すべての人を照らすまことの光があって、世にきた。(ヨハネによる福音書1:9)

しかし神の裁き、キリストの十字架から救いが現れ、・・ーローマ人への手紙 3:19, 20より礼拝説教

 きょうの箇所の中心となるのは「律法を行うことによっては、すべての人間は神の前に義とせられない」です。

 パウロは、キリストによる以外に救いはないことを明らかにしようとしています。だからパウロ「誇る者は主を誇れ」(1コリント 1:31)と述べています。罪人は、神の御前でキリスト以外の何ものも誇れるものがないということです。しかし、人は何かしらキリスト以外にも誇りを持ち、自分自身の内に自分の価値を持ちたいと願っています。ユダヤ人であれば、割礼を受けている、旧約の御言葉、そこにある数々の戒めを知っている、イエス キリストを知ってきのうきょう真の神を信じた人たちとは違うなど、自分自身の価値を持ちたいと思っています。

 しかしパウロはいいます。「すべて律法の言うところは、律法のもとにある者たちに対して語られている。それは、すべての口がふさがれ、全世界が神のさばきに服するため」だと。

 律法というのは聖書の用語です。律法のもとにある者とは、直接的にはユダヤ人を指しています。それなのにパウロ「それは、すべての口がふさがれ、全世界が神のさばきに服するため」だと言うのです。なぜでしょうか。それはすべての人が律法のもとにあるからです。

  律法とは、端的に言って戒めのことです。掟と言ってもいいし、ルールと言ってもいいでしょう。どんな集団であっても、人が共に生きようとするところには、 律法があります。それは、ときに法律という形を取ることもあり、マナーやエチケット、暗黙の了解という形のこともあります。一緒にゲームやスポーツをしようとすれば、そこにもルールが必要となります。すべての人は、生きていくとき、律法のもとにあるのです。けれど「律法を行うことによっては、すべての人間は神の前に義とせられない」のです。

 世には良識のある人たちがいます。様々なレベルの律法、ルールを適切に守り、共に生きる生活が円滑に進むように配慮できる人たちがいます。しかし どんなに行き届いた人、周りから賞賛され認められる人であっても、罪がもたらした死から自由になることはできません。自分自身もそうですし、周りの人々も 罪と死から自由にすることはできません。

 パウロ「律法によっては、罪の自覚が生じるのみ」だと言っています。それは、この世のルール、約束事を完璧に守る、守らせることでは救いは現れないからです。この世のルールには、救いをもたらす力はありません。

 神の律法については、イエスが律法学者の問いかけに答えて「第一のいましめはこれである、『イスラエルよ、 聞け。主なるわたしたちの神は、ただひとりの主である。心をつくし、精神をつくし、思いをつくし、力をつくして、主なるあなたの神を愛せよ』。第二はこれである、『自分を愛するようにあなたの隣り人を愛せよ』。これより大事ないましめは、ほかにない」(マルコ 12:29~31)と言われました。イエスは 律法の根幹は「愛する」ことであることを指摘されました。おそらく誰もが「愛は大切だ」と思っています。そして愛そうとします。しかし人はしばしば、愛することに躓いてしまいます。疲れてしまいます。愛せなくなります。大切だと分かっていても、できなくなります。自分には愛を貫く力はない、という罪の自覚が生じるのみです。主イエスのように、裏切る者をさえ食卓に招き、その前に身をかがめて足を洗い、自分を嘲る者、殺そうとする者のために執り成し祈り、命を献げて愛し抜くことは誰にもできません。イエス キリストによって示された神の愛を前にしたとき、わたしたちは口をつぐむしかないのです。

 わたしたちは神の愛の前で言い訳をします。「わたしは自分のできる精一杯のことをした。人間なんだから完璧でないのは仕方ない。人間に完全な愛を求めるとしたら、神の方が間違っている。」しかしどんな言い訳をし、自分の正当性を主張しても、それで神の前に義とされることはありませんし、罪と死から自由になることもありません。

 そして「すべての人間は神の前に義とせられない」ことを受け入れずして、神が与えてくださる救いに与ることはできません。神が用意してくださった救い以外に、わたしたちが救われる道はないのです。この神の言葉である聖書を誠実に受け止め、神の御前に自らの罪を認め、 神へと悔い改め、神が用意してくださった救いを感謝して受ける以外に救いの道はないのです。わたしたちは自分で自分を救うことはできないのです。救えるようなものを何一つ持ってはいないのです。神がわたしたちを憐れんでくださり、救い主としてひとり子イエス キリストを与えてくださったので、イエス キリストによって救われるのです。わたしたちは神に救われるのでなければ、罪によって滅びる罪人なのです。わたしたちはこのことをきちんと理解する必要があります。

 神の御前で、すべての口はふさがれ、すべては神の裁きに服さねばなりません。しかし神の裁きに服するからこそ、神の救いを受けることができるのです。神は罪を大目に見て見逃したのではなく、ひとり子の命をかけてまで、罪を裁かれました。しかし神の裁き、キリストの十字架から救いが現れ、和解の福音が語られ始めたのです。わたしたちは神に救って頂くのです。すべてを救って頂くのです。自分の誇りは自分の誇りとして取っておいて、自分の力の足りない部分だけ神に救って頂くのではないのです。自分のすべてを丸ごと救って頂くのです。神の裁きによって、罪から引き離され、清められ、イエス キリストのものとされていくのです。

 罪は知りたくない、裁きは受けたくない、でも救いはほしい。これでは神が用意してくださった救いに与ることができません。聖書を通して神を知り、罪を知って、神へと悔い改め、神に導かれて救いに入れられるのです。ですからパウロは、徹底的に語ります。「あなたの持っている誇りのどれ一つも救いのためには役に立たない。かえって妨げにさえなる。」パウロは容赦なく人間の主張、誇り、言い訳を打ち砕いていきます。けれどそれらが打ち砕かれていったとき、神が備えてくださった救いがわたしたちの目の前に現れてきます。

 神はひとり子イエス キリストを救い主として遣わしてくださった。そしてイエス キリストだけが、わたしたちの救いとなってくださった。神は本当にわたしのすべてを知った上でわたしを愛してくださっている。神はどんなときもわたしを愛し抜いてくださる。その神に出会っていく、イエス キリストによって真の神を知っていく、そのところでわたしたちは限りない救いの中に入れられていくのです。

 ですからパウロは、この手紙を懸命に書いています。「神がなしてくださった救いを正しく知らないで、間違った救いを言い伝えてはならない。イエス キリストこそ救い主であり、どのような罪からも救ってくださる。この方を遣わしてまでわたしたちを救ってくださる神の愛の前に、たとえ死でさえも立ち塞がることはできない。神はわたしたちと共に生きることを願っておられる。どんなに多くの人が神を信じても、このわたしが神を信じないで滅びるということを神は喜ばれない。このわたしさえも完全に救うために、神はキリストをお遣わしくださった。」そのことに気づくように、知るようにと、パウロは懸命にこの手紙を書いているのです。

 この罪を指摘する部分を読んで、自分の罪を指摘されると、楽しくないかもしれません。しかし、キリストの救いに与るために、このことを知って神の御前に立たなくてはなりません。キリストの使徒とされたパウロの切なる願いが込められています。

 この世は明るく楽しく生きることを提示します。それはとても魅力的に見えます。しかしこの世は、死以外の未来を提示することはできません。そして この世は、真の神を提示することもありません。神ご自身だけが、罪からの救いを提示し、死を打ち破る未来を示してくださいます。

 神の言葉である聖書に聞いていくとき、真の救い主イエス キリストと出会います。イエス キリストと出会うとき、神の真実な愛を知り、それを喜んで受け取ることができます。神が用意してくださったこの救いの他に、自分に都合のいい救いはありません。ですから、すべての民は御言葉に導かれて、神の御前に立つのです。時代が変わり、社会が変わり、世界が、文明がどんなに変わろうとも、いつの時代に生きている人も、御言葉に導かれて、神の御前へと立ち帰るのです。

 そして、神が罪を裁いてくださり、わたしたちを罪から自由にしてくださり、キリストの救いへと導き入れてくださるのです。神がキリストと同じ姿に、このわたしを変えていってくださる。この言葉は真実です。この言葉が実現するために、 キリストは人となられました。十字架を負われました。命を献げてくださいました。そして死を打ち破り、復活し、天に昇られました。神が決して揺らぐことのない希望、死によってさえ奪われることのない希望を与えていてくださいます。わたしたちは神ご自身の御手から、このわたしのために備えられた命と未来を受け取るのです。
 
ハレルヤ