風と、光と・・・

すべての人を照らすまことの光があって、世にきた。(ヨハネによる福音書1:9)

うちの野良猫だった・・


● 『沖縄への差別』と読書『ちゃぶ台返しのススメ』、それに『1021再稼働反対!首相官邸前抗議』
フランスの経済・歴史学者兼EU復興銀行の元総裁のジャック・アタリ先生、ちょっと前に読んだ彼のちゃぶ台返しのススメ』の内容が印象に残っているので、ちょっとまとめてみたいと思います。これから先 どんな時代になっていくのか考えるうえで、ボク個人として非常に参考になったからです。
当面の時代の見立てとして、彼はこんなことを言っています。
…。
一方 それに対して市民の側には
『甘受者』が増えている。彼らは危機から眼をそむけ、政治家や企業に要求だけをする人々である。政治家はそれを自分の勢力拡大の為に利用し、危機はより深まっていくだろう。
(中略)
ちゃぶ台返しのススメ』は…。ただ 本の前半と比べて、人物紹介が延々と続く中盤がかなり酷いので、買う必要はないと思います。図書館にあったら、また本屋で見かけたら、まえがきと第1章数十ページ、あと末尾の数ページを立ち読みするのがこの本の正しい使い方です(笑)。
本の題名『ちゃぶ台返し』とは英語で『Upturn the tea table』、任天堂の役員がスピーチで使ってから欧米でも広がっているコトバだそうです。
(中略)
と、いうことで、今週も官邸前抗議へ。
午後6時の天気は19度。スーツを着て丁度いい気候です。一昔前まで『デモには逃げやすい恰好で行け』と言われていました。訳もなく警官が襲ってくることがあったからです。反原発デモでも初期のころはそう言うことがありました。ボクの眼の前でも、警官がデモの隊列を取り囲んで周りから見えにくくしたかと思うと、ただ歩いていただけの外国人のおじいさんを捕まえて道路に押さえつけ、額から血を流したおじいさんがしょっ引いていかれたのを見たことがありますまた、夏が終わる:9.11新宿・原発やめろデモ - 特別な1日(Una Giornata Particolare)
ところが今は違う。お年寄りも子供連れのお母さんもサラリーマンも、普通の人が平和的に参加するデモの形態が出来ている。これも官邸前抗議の功績です。ボクもデモの時はある程度はみっともなくない、小奇麗な恰好?をしていくようになりました。やっぱり、そのほうが気分はアガるじゃないですか(笑)。今日の参加者は主催者発表で800人。いつもより人の集まりが早かったせいか、それより多い感じがしました。
今週19日 『9/28、再稼働申請中の志賀原発2号機に6.6トンもの雨水が流入して電源停止に追い込まれる可能性があった』ということが報じられました。もし再稼働していたら原子炉の冷却もストップ、福島の二の舞になる可能性があったわけです。
志賀原発2号機で雨水が流入 規制委、北陸電に原因報告求める  :日本経済新聞
どれだけ雨が降ったか知りませんが、あばら家じゃあるまいし原発に雨水が流入するというのも信じられません。でも、もっと酷いことがあります。
9月28日に流入事故が起きたにもかかわらず、北陸電力は9月30日に志賀原発の安全対策について記者会見をしているんです。曰く『西野彰純副社長は「安全性向上により積極的に取り組むとともに、早期の再稼働を目指していく」などと語った』
北陸電、志賀原発2号機の安全対策追加 完了時期、17年度中に  :日本経済新聞
流入事故から2日経っても北陸電力は事故を隠していた!ということです。
ブログを書くために日経の記事を検索していたら気が付いたんですけど(笑)、マスコミ、これくらい追求しろよ!!
原発に雨漏りが起きるだけでも信じられないのに、更に隠蔽する北陸電力も許し難い体質のインチキ企業のようです。こんな企業が原発を触っていいんでしょうか。(抜粋引用)

秋の日の草ばうばうのわが庭のまなかにねむるわが家のノラは

日曜の朝、教会の敷地に捨てられていた仔猫達を風除室に連れてきた教会員がいた。この人はもちろん、「自分はいいことをしている」と周りに誇示しようとしたのではない。そうではなくて、もうすぐ雪が降るかもしれないという寒空の下に捨てられていた仔猫達を放っておけず、謂わば無我夢中でそうしたのである。そして、引き取り手になる者を探すも見当たらず、礼拝が終わってみんな帰った。
教会という建物の中にある牧師館で生き物を飼うつもりは私にはない。娘が小さい頃に、猫の毛にもアレルギーを持っていたからだ。教会というのはどういう人が来るか分からないところである。アレルギーを持った人も来る可能性がある。しかし、そういった事に悩まされてこなければ、そういうことには思い至らないのである。結局、夫のお尻の下の温かい場所に寄り集まって気持ちよさそうに眠ろうとする仔猫達を一晩風除室に置いて、翌日保健所に引き取りに来て貰った。
北海道というのは(地域によって違うかも知れないが)、垣根というものをあまり作らない所ではないかと思う。仔猫達が箱に入れられて捨てられていたのは教会の敷地内だったけれど、そこは、その辺りの人々が通っていく通り道にもなっていた。けれど、日曜に教会に集うキリスト教徒の善意を当てにして捨てたのは明白だろう。自分は傷つかないで、他人に痛みを押しつける。そういう人間が私は大っ嫌いだ!この時も、私は怒りをどこに向けて良いのか分からなかった。捨てた人間がどこの誰だか分からなかったからだ。
もちろん、私は、仔猫達を風除室に運び込んだ教会員に向かって怒りを発したりはしない。自分より弱い相手に怒りを投げつけるのは自尊心が許さないからだ。しかし怒りは感じていた。捨て猫を見捨てるに忍びないという自分の辛さを回避するために風除室に運び込んで、保健所に依頼をしなければならないこちらの痛みを考えもしなかったからだ。最終的に責任を取ることも出来ないのに、感情に駆られて行動し、最後は放り投げたのである。まったく、余計なことをしてくれる!これだから始末に負えないのだ、善意だけの人間というのは。

わたしがあなたがたをつかわすのは、羊をおおかみの中に送るようなものである。だから、へびのように賢く、はとのように素直であれ。(マタイ福音書10:16)

うちの野良猫だったネコスケのこの写真を見ていると、いなくなる前に一度だけでも頭を撫でておけば良かったと思う。
けれど、ネコスケは私にそんな行為は許さなかっただろう。出会った初めから、ふてぶてしい猫だったのだ。「お前たちよりも前から私はこの庭にいるんだよ」、そう言っていたのだから。