風と、光と・・・

すべての人を照らすまことの光があって、世にきた。(ヨハネによる福音書1:9)

ひとりゐる晩秋の家あめのおと

10月は良いお天気の日が続いたが、11月に入った途端お天気が良くない。


アプローチのすぐ脇で虫に葉を食べられながらも花を咲かせた紫蘇が、あらかた種を落とした頃に、細かく切って庭の隅に敷いた。その上を歩くと、踏みしだかれた紫蘇の穂が香りをたてる。香りは枯れるほどに立ち上るものだ。枯れたものが置かれた場所があるのがいい、と思う。とりわけ晩秋の庭では。けれど玄関先にこういったものを目にすると、「汚い!」と言って嫌がる人もいるだろう。それにもう一つ厄介な問題がある。猫が糞をしに来るのである。やられたのだ。

自然に還るものであっても、完全に還るまでには結構な時間がかかる。土の上にあったとしても。最近、「自然に倒れた倒木は微生物がすみやかに分解するが、人間が切り倒した木はなかなか分解されない」というようなことを書いたものを目にした。何で目にしたのだったか探しても見つからないのだが・・。
うちの自治体では、草や枝や木も、指定のゴミ袋に入れて出すか、トラックに積んで直接焼却場に搬入するかのどちらかになっている。だから、伸びすぎた樹木を剪定した後は結構厄介なのだ。そして私には、ゴミ袋に入れて出すことに抵抗感がある。真に厄介だ。

以前、北海道の豊富温泉が乾癬に良いということで、医師の講演を聞きに行ったことがあった。そこでの「温泉の何が乾癬に良いのでしょう?」という私の質問への医師の答は、「温泉に含まれるタール分だと思う」ということだった。タールというと、黒いどろどろしたものを思い浮かべる。あるいは私などは、道路を部分的に舗装するときに塗られている「コールタール」や「アスファルト」といった名称を連想する。それで、帰ってから色々調べてみたのであった。その時調べたものとは異なるが、以下にウィキペディア等で調べたものを書き出してみる。

タール(英: tar, 独: Teer)は、有機物質の熱分解によって得られる、粘り気のある黒から褐色の油状の液体である。乾留液(かんりゅうえき)という。大部分のタールは石炭からコークスを生産する際の副産物として産出されるが、石油、泥炭又は木材その他の植物から作り出すこともできる。
私はこの「タール」について調べた時、植物の花や葉や小枝を蒸溜してつくる精油と似ているように思ったのだった。それで石油についても調べた。何故かと言うと、ワセリンは石油からつくられているので、精油とタールとワセリンの違いを知りたいと思ったからだ。

石油(せきゆ)とは、炭化水素を主成分として、ほかに少量の硫黄・酸素・窒素などさまざまな物質を含む液状の油で、鉱物資源の一種である。
(中略)現在の学説の主流である。百万年以上の長期間にわたって厚い土砂の堆積層に埋没した生物遺骸は、高温と高圧によって油母 (en:kerogen) という物質に変わり、次いで液体やガスの炭化水素へと変化する。これらは岩盤内の隙間を移動し、貯留層と呼ばれる砂岩や石灰岩など多孔質岩石に捕捉されて、油田を形成する。この由来から、石炭とともに化石燃料とも呼ばれる。

この石油の由来を見て、石油製品と言われるプラスチックなども長い時間をかければ分解されていくのではないかと思ったのだった。
石油はエネルギーを生み出すためだけでなくあらゆるものに使われている。スーパーで買い物をすれば、食料だけでなくトレーだのパックだのの石油製品が嫌でも漏れなく着いてくる。自治体では、エコと称してリサイクルするのか、埋め立てにするのか、良く分からないまま回収している。リサイクルのために膨大なエネルギーをまた使う。埋め立てて自然に還らないものならそれは一体どうなるのか。しかし燃やせば有毒ガスを発生するという。一体どうすれば良いのか。そういうところに私たちは立たされ続けている。ずっと、そう思ってきた。だから、石油について調べたのだった。

しかしやはり、時間なのだ、問題は。

「時間をかければ」と言うのであれば、たとえば以下のような事柄にも希望を託せるかも知れない。宇宙へ移住するためにというより、この地球で生き続けていくために。しかし・・。


● チェルノブイリで、放射能を食べる菌を発見、宇宙移住計画の架け橋に

 …。たとえば、場所によっては、危険な放射能を出す岩石があった。すべての生命のエネルギー源である太陽光線にも、短波放射線がひそんでいて、生命をきずつけたのだった。時をかけてーそれも何年とかいう短い時間ではなく何千年という時をかけて、生命は環境に適合し、そこに生命と環境の均衡ができてきた。時こそ、欠くことのできない構成要素なのだ。それなのに、私たちの生きる現代からは、時そのものが消えうせてしまった。
 めまぐるしく移りかわる、いままで見たこともないような場面ーそれは、思慮深くゆっくりと歩む自然とは縁もゆかりもない。自分のことしか考えないで、がむしゃらに先をいそぐ人間のせいなのだ。放射線といっても、岩石から出る放射線でもなければ、またこの地上に生命が芽生えるまえに存在していた太陽の紫外線ー宇宙線の砲撃でもなく、人間が原子をいじってつくり出す放射能なのだ。…。いまや人間は実験室のなかで数々の合成物をつくり出す。自然とは縁もゆかりもない、人工的な合成物に、生命は適合しなければならない。
 時間をかければ、また適合できるようになるかもしれない。だが、時の流れは、人の力で左右できない、自然の歩みそのものなのだ。ひとりの人間の生涯のあいだにかたがつくものではない。何世代も何世代もかかる。何か奇跡が起こってうまくいっても、新しい化学物質があとをたつことなく実験室から流れ出てくるとすれば、すべてはむなしい。(レイチェル・カーソン=著『沈黙の春』より)

時こそは正に神のものなのだ。それを私たちは操作しようとしているのである。出来もしないのに。


蒼穹は蜜かたむけてゐたりけり時こそはわがしづけき伴侶   岡井 隆


昼には、主はそのいつくしみをほどこし、
夜には、その歌すなわちわがいのちの神にささげる祈がわたしと共にある。(詩篇42:8)


● 松戸でビワの大木を伐採してきました。
住み心地のいいところなのですが、周りはすべてコンクリート
ビワの葉一枚、草一本でもそこに置くと何年もそのままの姿で残っている。
生ごみも枯葉も雑草も数カ月も経つと土に還っていく自然は、どこにでもあると思っていたけれど、違うんだ。
自然はある程度の広さがないと循環できないらしい。
「土に還る」という考え方そのものが街に住む人たちには理解できなくなったのかもしれない。
根本的な前提が違う人たちを、わたしは理解できるのだろうか。
5年前に抜いた枯れた雑草をみながら、ぼんやりそんなことを考えました。(抜粋引用)

以下はおまけ。
コールタール(coal tar)とは、コークスを製造する時にコークス炉で石炭を乾留して得られる副生成物の一つ。
アスファルト(英: asphalt)もしくは土瀝青(どれきせい)とは、原油に含まれる炭化水素類の中で最も重質のものである。