風と、光と・・・

すべての人を照らすまことの光があって、世にきた。(ヨハネによる福音書1:9)

神の命令に生きる−神とは、どこまでも人間の外側に人間とは全く別のものとして存在するものでなくてはならない(ルツ記から考える共同体)


福島の鼻血問題(その3)− 2年前、自民党議員たちの鼻血発言
福島で、原発事故の後、多くの人が鼻血を出しているという事実について、当時、野党だった自民党議員たちが民主党政府を責めていました。もう忘れたのでしょうか?それとも、福島県でたくさんの人々が鼻血を流しているといった質問は、自民党議員たちの捏造した風評だったのでしょうか?(リンク記事より抜粋)

畑から穀物を刈り取るときは、その畑の隅まで刈り尽くしてはならない。収穫後の落ち穂を拾い集めてはならない。貧しい者や寄留者のために残しておきなさい。わたしはあなたたちの神、主である。(レビ記23:22新共同訳)

畑で穀物を刈り入れるとき、一束畑に忘れても、取りに戻ってはならない。それは寄留者、孤児、寡婦のものとしなさい。こうしてあなたの手の業すべてについて、あなたの神、主はあなたを祝福される。(申命記24:19)

もし同胞の一人が貧しくなったため、自分の所有地の一部を売ったならば、それを買い戻す義務を負う親戚が来て、売った土地を買い戻さねばならない。もしその人のために買い戻す人がいなかった場合、その人自身が後に豊かになって、自分で買い戻すことができるようになったならば、その人は売ってからの年数を数え、次のヨベルの年までに残る年数に従って計算して、買った人に支払えば、自分の所有地の返却を受けることができる。しかし、買い戻す力がないならば、それはヨベルの年まで、買った人の手にあるが、ヨベルの年には手放されるので、その人は自分の所有地の返却を受けることができる。(レビ記25:25~28)

兄弟が共に暮らしていて、そのうちの一人が子供を残さずに死んだならば、死んだ者の妻は家族以外の他の者に嫁いではならない。亡夫の兄弟が彼女のところに入り、めとって妻として、兄弟の義務を果たし、彼女の産んだ長子に死んだ兄弟の名を継がせ、その名がイスラエルの中から絶えないようにしなければならない。(申命記25:5~6)

(上記のような)旧約に示されている神からの命令がどのようしてに守られたかということがルツ記には描かれている。ルツ記は、家族と共に異郷の地に赴いたナオミという女性が、夫も息子達も亡くして、嫁のルツと共に故郷へと帰ってくる物語である。

しゅうとめがルツに、「今日は一体どこで落ち穂を拾い集めたのですか。どこで働いてきたのですか。あなたに目をかけてくださった方に祝福がありますように」と言うと、ルツは、誰のところで働いたかをしゅうとめに報告して言った。「今日働かせてくださった方は名をボアズと言っておられました。」ナオミは嫁に言った。「どうか、生きている人にも死んだ人にも慈しみを惜しまれない主が、その人を祝福してくださるように。」ナオミは更に続けた。「その人はわたしたちと縁続きの人です。わたしたちの家を絶やさないようにする責任のある人の一人です。」モアブの女ルツは言った。「その方はわたしに、『うちの刈り入れが全部済むまで、うちの若者から決して離れないでいなさい』と言ってくださいました。」ナオミは嫁ルツに答えた。「わたしの娘よ、すばらしいことです。あそこで働く女たちと一緒に畑に行けるとは。よその畑で、だれかからひどい目に遭わされることもないし。」ルツはこうして、大麦と小麦の刈り入れが終わるまで、ボアズのところで働く女たちから離れることなく落ち穂を拾った。(ルツ記2:19~23)
この部分を読むと、神から命じられている「貧しい者達や寄留者や孤児や寡婦に落ち穂を拾わせること」を快く思わない人達もいたということが分かる。
又、上に引用した申命記25章の続きを見ると、この神からの戒めにも従おうとしない人々もいたのだ、と理解できる。

もし、その人が義理の姉妹をめとろうとしない場合、彼女は町の門に行って長老たちに訴えて、こう言うべきである。「わたしの義理の兄弟は、その兄弟の名をイスラエルの中に残すのを拒んで、わたしのために兄弟の義務を果たそうとしません。」町の長老たちは彼を呼び出して、説得しなければならない。もし彼が、「わたしは彼女をめとりたくない」と言い張るならば、義理の姉妹は、長老たちの前で彼に近づいて、彼の靴をその足から脱がせ、その顔に唾を吐き、彼に答えて、「自分の兄弟の家を興さない者はこのようにされる」と言うべきである。彼はイスラエルの間で、「靴を脱がされた者の家」と呼ばれるであろう。(申命記25:7~10)
神の命令に従って生きるということは、神を自分の頭の中で作り上げたものとして捉えている場合には出来ないことだろうと思う。頭の中で作り上げた神は、自分の都合の良いように頭の中で置き換えることができるのだから。そのような神に対しては畏れを持つこともないだろうから、命令に従わずとも恐れることは何もないということになる。そういった頭の中で考えられた神というのは、中世や近代の哲学によって生み出されるよりずっと前に遡って存在するのだと思う。そしてそれは神の民と言われるイスラエルの民の中でも存在したと考えられる。そもそも偶像とは人間の頭で考えられたもののことである。
又、この神からの命令を昔からの地域の慣習や習わしや決まり事としてだけ捉えている場合も同様だと思う。それには従わないという例外的な行動がそこから生じてくると言える。

神からの命令に従って生きるためには、神というのは、どこまでも人間の外側に人間とは全く別のものとして存在するのでなくてはならないのだ、と私は思う。逆から言えば、そういった神を信じるのでなければ、神からの命令に従って生きるということは不可能に思われる。

ルツ記の中でも、ナオミとルツの家系を絶やさないために第一番目に責任のある人物が「それは負えない」と語る場面が記されている。

ボアズはその親戚の人に言った。「モアブの野から帰って来たナオミが、わたしたちの一族エリメレクの所有する畑地を手放そうとしています。それでわたしの考えをお耳に入れたいと思ったのです。もしあなたに責任を果たすおつもりがあるのでしたら、この裁きの座にいる人々と民の長老たちの前で買い取ってください。もし責任を果たせないのでしたら、わたしにそう言ってください。それならわたしが考えます。責任を負っている人はあなたのほかになく、 わたしはその次の者ですから。」「それではわたしがその責任を果たしましょう」と彼が言うと、ボアズは続けた。「あなたがナオミの手から畑地を買い取るときには、亡くなった息子の妻であるモアブの婦人ルツも引き取らなければなりません。故人の名をその嗣業の土地に再興するためです。」すると親戚の人は言った。「そこまで責任を負うことは、わたしにはできかねます。それではわたしの嗣業を損なうことになります。親族としてわたしが果たすべき責任をあなたが果たしてくださいませんか。そこまで責任を負うことは、わたしにはできかねます。」かつてイスラエルでは、親族としての責任の履行や譲渡にあたって、一切の手続きを認証するためには、当事者が自分の履物を脱いで相手に渡すことになっていた。これが、イスラエルにおける認証の手続きであった。その親戚の人は、「どうぞあなたがその人をお引き取りください」とボアズに言って、履物を脱いだ。ボアズはそこで、長老とすべての民に言った。「あなたがたは、今日、わたしがエリメレクとキルヨンとマフロンの遺産をことごとくナオミの手から買い取ったことの証人になったのです。また、わたしはマフロンの妻であったモアブの婦人ルツも引き取って妻とします。故人の名をその嗣業の土地に再興するため、また故人の名が一族や郷里の門から絶えてしまわないためです。あなたがたは、今日、このことの証人になったのです。」(ルツ記4:3~10)
ここで、第一番に責任のある人が断った理由は、ルツを妻として引き取ることで自分の家系を損なうことになるということであった。自分の物を損なう、つまり自分自身の利益を守ることを第一に考えたのである。しかし、ボアズはそれを引き受けた。
神の祝福は神の命令に従って生きる者の上に注がれる。それ故に、この後には証人となった長老達の祝福の言葉が続くのである。

門のところにいたすべての民と長老たちは言った。「そうです、わたしたちは証人です。あなたが家に迎え入れる婦人を、どうか、主がイスラエルの家を建てたラケルとレアの二人のようにしてくださるように。また、あなたがエフラタで富を増し、ベツレヘムで名をあげられるように。どうか、主がこの若い婦人によってあなたに子宝をお与えになり、タマルがユダのために産んだペレツの家のように、御家庭が恵まれるように。」(ルツ記4:11~12)
神の民イスラエルにとって、自分の家系から救い主が生まれるというのは神からもっとも大きな祝福を受けたという証となる出来事であったと思うが、イエスキリストは後にこの異郷の女ルツとボアズとの家系に生まれ出るのである。そしてイエスキリストの誕生と共に神の共同体はイスラエルから全世界へと広がっていった。

ボアズはルツによるオベデの父、オベデはエッサイの父、エッサイはダビデ王の父であった。ダビデはウリヤの妻によるソロモンの父であり、ソロモンはレハベアムの父、レハベアムはアビヤの父、アビヤはアサの父、アサはヨサパテの父、ヨサパテはヨラムの父、ヨラムはウジヤの父、ウジヤはヨタムの父、ヨタムはアハズの父、アハズはヒゼキヤの父、ヒゼキヤはマナセの父、マナセはアモンの父、アモンはヨシヤの父、ヨシヤはバビロンへ移されたころ、エコニヤとその兄弟たちとの父となった。バビロンへ移されたのち、エコニヤはサラテルの父となった。サラテルはゾロバベルの父、ゾロバベルはアビウデの父、アビウデはエリヤキムの父、エリヤキムはアゾルの父、アゾルはサドクの父、サドクはアキムの父、アキムはエリウデの父、エリウデはエレアザルの父、エレアザルはマタンの父、マタンはヤコブの父、ヤコブはマリヤの夫ヨセフの父であった。このマリヤからキリストといわれるイエスがお生れになった。(マタイによる福音書1:5~16口語訳)

神からの命令には、他に、以下のようなものもある。

同胞には利子を付けて貸してはならない。銀の利子も、食物の利子も、その他利子が付くいかなるものの利子も付けてはならない。外国人には利子を付けて貸してもよいが、同胞には利子を付けて貸してはならない。それは、あなたが入って得る土地で、あなたの神、主があなたの手の働きすべてに祝福を与えられるためである。(申命記23:20~21)

あなたの神、主に誓願をかける時、それを果すことを怠ってはならない。あなたの神、主は必ずそれをあなたに求められるからである。それを怠るときは罪を得るであろう。しかし、あなたが誓願をかけないならば、罪を得ることはない。あなたが口で言った事は守って行わなければならない。あなたが口で約束した事は、あなたの神、主にあなたが自発的に誓願したのだからである。(申命記23:21~23口語訳)

隣人のぶどう畑に入るときは、思う存分満足するまでぶどうを食べてもよいが、籠に入れてはならない。隣人の麦畑に入るときは、手で穂を摘んでもよいが、その麦畑で鎌を使ってはならない。(申命記23:25~26)


関連過去記事
  ↓
http://d.hatena.ne.jp/myrtus77/20121115/p1