風と、光と・・・

すべての人を照らすまことの光があって、世にきた。(ヨハネによる福音書1:9)

罪を担う - ヴァイツゼッカー演説『一九八五年五月八日』より


キリストの手紙   (聖霊について、その2)

「荒れ野の40年」と題されるリヒャルト・フォン・ヴァイツゼッカー大統領ドイツ終戦40周年記念演説を読んでいて、「罪を担う」ということについて考えさせられたのでした。

その中の一節を引用します。

 罪責があろうがなかろうが、年を取っていようが若かろうが、われわれはすべてこの過去を引き受けなければなりません。この過去のもたらした結果が、われわれすべての者を打ち、われわれは、この過去にかかずらわないわけにはいかなくなっているのであります。(加藤常昭=著『ヴァイツゼッカー』(清水書院)より)
「われわれは、この過去にかかずらわないわけにはいかなくなっている」という加藤常昭訳のこの言葉を読むときに、「ひとりの人によって、罪がこの世にはい」ってきたというローマ人への手紙(5:12)の言葉を思い起こさずにはおれません。
キリスト教徒である、なしに関わらず、私たちは罪の世に生きています。一人の人によって罪がはいってきた、罪によって死がはいってきた、そのような世界に私たちは生きているのだと思わされます。
けれど、キリスト教徒というのは、その一人の人であるアダムの罪を自分の罪として身に負って生きる者達なのではないでしょうか。

以下、引用。

 ここでも、旧約聖書に目を留めることをお許し頂きたい。旧約聖書は、信仰の如何を問わず、いずれの人間にとっても大切な深い洞察を、大切に秘めているものであります。そこでは、四〇年というのが、いくたびか繰り返して登場し、本質的に重要な役割を果たしているのであります。
 (エジプトを脱出した)イスラエルの民は、約束の地への進入をもって始まる歴史の新しい一章が刻まれるまで、四〇年間、荒野に留まらなければなりませんでした。
 当時(イスラエルの民が荒れ野で犯した罪に)責任ある地位にありました父たちの世代が完全に交替するまでに、四〇年の歳月が必要だったのであります。
 しかし、他の箇所(士師記)においては、自分が助けられたり、救われたりした経験の記憶が、精々四〇年しか続かないことがいかに多いかということが記されております。この思い出が断ち切れた時、安息の時は終わるのであります。
 このように、四〇年というのは常にひとつの時の刻みを意味したのであります。・・。
 われわれの傍らで、新しい世代が育ち、政治的な責任を取るほどにまでなってまいりました。若者は、戦争終了時に起こったことについては責任がありません。しかし、その結果歴史の中に生じてきたことには、やはり責任があります。
 われわれ年配の者は、・・。若い人びとを助けるということを心得ていなければなりません。思い出をはっきり持ち続けるということは、生命に関わる重要なことだからであります。・・。
 われわれは、自分たちの歴史から、人間には何ができるのかを学びました。従って、人間としてもっと別のもの、もっとよいものであり得たなどと幻想にふけることはゆるされません。
 ・・。われわれは人間であるが故に学んだのであります。自分たちが人間である限り、常に危険にさらされ続けていることを。しかし、さまざまに迫る危険を新たに克服していく力をも持つのであります。(『ヴァイツゼッカー』より)

ここで語られているのは、記憶するということなのだと思います。自分たちの父の世代が犯した罪と、その罪からの神の救済の歴史を。神の民の歴史というのは、まさに神による、罪からの人類の救済の歴史だと言っても良いのではないでしょうか。

この演説は、ナチス・ドイツの罪を、旧約の民の罪、延いてはアダムの罪にまで遡って担うことを若者達に懇請したものなのだと思うのです。再び同じ過ちを若い世代が繰り返さないために。

以下、最後の部分を引用。

 ヒットラーのした働き、それは、偏見と敵意と憎悪を掻き立てるということでありました。
 そこで、若い諸君へのわれわれの願いはこうであります。
  どうぞ、敵意と憎悪の中へと駆り立てられないようにして頂きたい。
   他の人間に対する敵意と憎悪へ、
   ロシア人あるいはアメリカ人に対する敵意と憎悪へ、
   ユダヤ人あるいはトルコ人に対する敵意と憎悪へ、
   ラディカルな要求をする人びと、あるいは、保守的な人びとに対する敵意と憎悪へ、
   黒人あるいは白人に対する敵意と憎悪へ、
   駆り立てられないで頂きたい。
 対立して生きるのではなく、共に生きていくことを学んで頂きたい。
 民主的に選ばれた政治家であるわれわれこそ、このことを常に繰り返して心に留め、その模範となろうではありませんか。
 自由を尊ぼうではありませんか。
 平和のために働きましょう。
 法を守りましょう。
 われわれのこころの内にある正義の規範に仕える者となりましょう。
 きょう、この五月八日に、なしうる限り、真理をしっかりと見つめようではありませんか。
 (加藤常昭=著『ヴァイツゼッカー』所収、演説「一九八五年五月八日」より)

あなたがたは、わざわいである。預言者たちの碑を建てるが、しかし彼らを殺したのは、あなたがたの先祖であったのだ。だから、あなたがたは、自分の先祖のしわざに同意する証人なのだ。先祖が彼らを殺し、あなたがたがその碑を建てるのだから。それゆえに、『神の知恵』も言っている、『わたしは預言者使徒とを彼らにつかわすが、彼らはそのうちのある者を殺したり、迫害したりするであろう』。それで、アベルの血から祭壇と神殿との間で殺されたザカリヤの血に至るまで、世の初めから流されてきたすべての預言者の血について、この時代がその責任を問われる。そうだ、あなたがたに言っておく、この時代がその責任を問われるであろう。(ルカによる福音書11:47~51)

関連過去記事→http://d.hatena.ne.jp/myrtus77/20140501/p1

以下、リンク


「歴史からは逃げられない」(梶村太一郎氏)

憲法記念日に寄せて:「世界と分かち合える市民の闘いの年を」
この死に至る病が現在日本でじわじわと亢進しています。なぜそうなるかは、戦後の日本の平和と繁栄の両輪である、「歴史から学ぶこと」を忘れ、「戦争放棄という普遍理念の憲法」を骨抜きにしようとしているからです。その恐ろしさの核心を知識人も指摘できず、危機感も乏しいのが現実です。もちろんメディアも自覚できず、その多くが、むしろ煽っているのです。このままでは、必ずワイマールドイツの失敗の轍を踏み、日本は確実に自滅することになります。(記事より)

南京虐殺否定を無断加筆 ベストセラーの翻訳者

映画『アクト・オブ・キリング』と読書『九月、東京の路上で』
関東大震災の時のことを考えたらアンワルたちも、アイヒマンも、ボクには他人事には思えない。」「ボクらはそれほど立派なものではないということは理解しておかなくてはいけない」(記事より)