風と、光と・・・

すべての人を照らすまことの光があって、世にきた。(ヨハネによる福音書1:9)

『右からの脱原発』針谷大輔=著(K&Kプレス)ー子供たちの命と麗しき山河を守るために

 しかし、首相官邸前に集まった人たちは左翼ではありません。彼らが暴力に訴えることなどありません。そこに参加しているのは、ベビーカーを押す女性、仕事帰りのサラリーマン、制服姿の中高生など、ごくごく一般の人たちです。
 また、彼らはかつての左翼のように、特定の主義・主張のために抗議活動をしているのではありません。原発の危険から子供の命を守りたい。子供の将来を守りたい。自分たちの故郷を守りたいー。彼らの訴えていることはただそれだけです。それは人間であれば当然の主張ではないでしょうか。
                      (針谷大輔=著『右からの脱原発』(K&Kプレス)より)


今年最後の金曜首相官邸前抗議と『CIA秘録』とPerfume@東京ドーム
国会前へ回ると、伊方から上京してきた人がマイクを握っている。伊方の人は頑張っているなあ、と思った。この人たちが言っているように、確かにあんなところで事故でも起こされたら瀬戸内海全部アウトだ。この人たちはそういうことをわかっているからだろう。その話を聞くとそういうリスクのことを考えない人が居るのが不思議に思える。
ファミリーエリアへ行くと、双葉町から避難してきた女性がスピーチをしていた。『ここに人が集まっているのに励まされて、避難生活をやってこれた』と仰る。官邸前抗議は今日で85回目だそうだ。抗議がこれだけ長く続いているのは、お互いがお互いに励まされているからだと思う。
●雨の日も風の日も雪の日もずっと続けてきたファミリーエリア司会のお姉さん(写真紹介)
●年賀状もいいけど、パブコメを出そう!(締切1月6日)
http://search.e-gov.go.jp/servlet/Public?CLASSNAME=PCMMSTDETAIL&id=620213015&Mode=0
以上、抜粋引用。


『右からの脱原発の著者である針谷大輔は、現在行われている脱原発運動が真の大衆運動になれば「右デモ」を解散し一参加者としてデモに参加したい、と言っておられる。『右からの脱原発』(K&Kプレス)には、何故「右翼」を名乗って運動をするのかという考えが語られているが、そこに至るまでの経緯も生々しく記されている。

私自身は、マルクス主義に欠けているのは何かという自分なりの考えは持っているが、左翼や右翼がどういうものかは良く分かっていない。が、針谷氏は、日本でこれまでデモを行ってきたのが左翼団体であり、彼らがとても暴力的だったために日本ではデモに対して悪いイメージが持たれています、と言っておられる。右翼団体も嫌われているが、左翼団体も世間から嫌われているので、警察が介入しやすくなるというのだ。世間の目というのは警察や政府に大きく影響を与えるということが分かる。実際、初期に行われた素人の乱主催の脱原発デモでは10名を越える逮捕者が出たという。
つまり、私の理解が間違っていなければ、針谷氏は官邸前などで今行われている脱原発デモを守るために敢えて「右から」と名乗って脱原発デモを始めたということになる。
官邸前抗議が大きくなるにつれてデモの参加者を減らすために在日特権を許さない市民の会などが妨害を始めたというが、「こうした行動を食い止めることも、右を名乗る私達の役割です」(『右からの脱原発』)と書いておられる。午後6時から行われる官邸前抗議の前に5時からの短い抗議を計画した際に、在特会の官邸前抗議に対抗する活動とぶつかり、『こんな奴らが日の丸を掲げていていいのか』と強い憤りを覚え激昂してしまい、警察と小競り合いの末、仲間も逮捕されてしまったという。
「仲間が逮捕されたことにより、たくさんの人たちに、迷惑をかけてしまいました。それと同時に、左右を問わず様々な人たちから支援してもらい、脱原発運動は人と人とのつながりが強い運動なのだということを改めて実感しました。」(『右からの脱原発』(K&Kプレス)より引用)私はここのところで、反原連主催の首相官邸前抗議の妨げにならないように、抗議活動の告知も控え、午後5時から30分ほどの抗議活動を行う予定にしていたというのを読んで、「これは本物だな」と思った。身を挺して大切な何かを守ろうとするのが本物の右翼であるなら、私も右翼になりたいと思った程だ。まぁ、私はそれほど愛国心というものを持っていないのでなれないとは思うが・・。

ところで、針谷氏はそもそもどうして脱原発運動をしようと考えたのか、ここの部分を紹介しなければ根本的な理解には至らないだろうと思う。いや、ここで私が書かなくても、『右からの脱原発』(K&Kプレス)を読んでいただけば良いということだが、取りあえず引用しよう。

 私は震災以前から、絶対的安全が確保されない原発には反対という立場をとっていました。原発はミサイルにも耐えられる設計になっていると言われていましたが、本当に安全なのか懐疑的に思っていました。しかし、日本の技術力と安全神話を信じてしまい、現在のように原発に対する抗議活動を行ってはいませんでした。
 原発について真剣に考えるようになったのは、震災から二週間ほどたって、支援活動のために被災地に入ってからです。
              ・
 私たちは被災地である福島県広野町で驚くべき光景を目にしました。それは地震津波による被害の大きさだけではありません。
 そこでは、東電の社員たちが防護服を着て車で移動している一方で、警察官や消防隊員はマスクだけつけて外を歩いていました。一般の市民にいたっては、マスクすらつけていないという状況でした。政府や東電は情報を隠し、現地がどれだけ危険な状態にあるか彼らに知らせていなかったのです。
 私はその不条理に怒りを抑えることができませんでした。私たちがもっと原発に目を光らせていればと反省すると同時に、脱原発を達成しなければという思いを強くしました。
              ・
              ・
 日本にはたくさんの美しい自然があります。これらは全て、私たちの祖先が守ってきてくれたものです。私はそれに心から感謝していますし、こうした日本に生を受けたことを誇りに思っています。また、これからを生きる子供たち、これから生まれてくる子供たちにも同じ気持ちを持ってほしいと願っています。
 しかし、これだけ放射能による汚染が進み、それにもかかわらず原発を維持しようとしている日本に、はたして子供たちは誇りを持ってくれるでしょうか。
 祖先に感謝してきた人間として、私は後の世代から批判されるような人間にはなりたくありません。彼らが感謝の気持ちを持ってくれ、誇りに思ってくれるような日本にしたい。
 私たちには、原発の建設を容認してきた世代として、原発問題に決着をつける責任があります。そして、原発のない日本を次の世代に引き渡す義務があります。そのためにも、何としても私たちの世代で脱原発を達成しなければならないのです。(針谷大輔=著『右からの脱原発』(K&Kプレス)より抜粋引用)

私の夫も、曽野綾子氏と上坂冬子氏が原発の施設内にヘルメットを被って入って「原発は安全だ」と宣伝しているのを知って「小説など全く読んだことはないがこの一点だけで曽野綾子は信用できない」と言っていたものだが、物理化学が苦手だった私は原発が安全かどうかなど考えたこともなかった。考えなかったから罪ほろぼしのように今頃何とかしたいと足掻いているのだ。

さて、『右からの脱原発には「デモ参加者の声」というのも載っている。ミニスカートの愛らしい写真と共に藤波心さんのしっかりした考えも書かれている。

 右翼とは本来、保守であるはずだ。保守とは、世界でも稀な、歴史の長い伝統あるこの日本を、保って、守っていくことだったのではないのか?
 福島事故は、その伝統ある日本の歴史を一瞬でゆがめてしまった。先祖が大切に大切に代代脈々と守り続けてきてくれた私たちのこの美しい国土を、おいしい海の幸・山の幸を、水を空気を汚してしまった。
 今、日本には原発があと50基も残っている。これらがまた再稼働し、またどこかで大地震が来て原発事故が起これば、日本は今度こそ、国家として立ち直れないほどダメージを受けるだろうという事は、アホな女子高生の私でも容易に予想は付く。
 なのになぜ、その日本を守ろうとする保守の右翼の多くが、原発に対して先頭に立って怒りの声を上げないのか、私にはまったく理解不能だ。
 右翼は核武装したいからだろうか。いや、核武装なんて、原発が1~2基あれば十分できるだろう。わざわざ自爆するかもしれないものを、50数基も国内に配置する必要はない。しかも警備の手薄な原発施設の数が多ければ多いほど、海外のテロリストや外国のミサイルの標的になった場合、取り返しのつかない大打撃となる。国防の観点から考えても、国内に原発は少ないほうが有利なはずだ。(『右からの脱原発』デモ参加者の声1藤波心「右とか左とか言って争っても他を利するだけです」より抜粋)

この事は、アニメ映画サマーウォーズを観た時に、私も思った。

他にも、具体的なデモの準備の仕方やシュプレヒコールの内容、脱原発批判に答えての考え方なども記されているが、文字は大きめで本自体は薄めなのでとても読みやすく出来ている。

母性原理の上に成り立っている日本では、善いものも悪いものも全てが許され呑み込まれていくのではないだろうか。だから日本には、強い指導者とかヒーローとか男の中の男などという人物は登場しづらいのではないかと私は思う。だからこそ、小さな弱い一人一人が手をつないでいくことが大事なのだと思う。右から差し出された手をとることが出来れば脱原発も夢ではないと、この本を読んで思わされたのだった。