風と、光と・・・

すべての人を照らすまことの光があって、世にきた。(ヨハネによる福音書1:9)

反原発デモが日本を変えるー柄谷行人

以下の記事を読むと、柄谷氏が自然エネルギー推進の問題点を見通しておられることが分かる。しかも、早い段階で見通しておられるということに、驚く。柄谷氏のことは山崎氏のブログで知ったのだが・・。
以下、抜粋引用。

反原発デモが日本を変えるー柄谷行人
 ―― 脱原発の動きについては、そのひとつの試みとして、ソフトバンク孫正義さんが提案している案(大規模な太陽光発電所の建設など)も、最近注目を集めています。
【柄谷】ぼくは信用しない。自然エネルギーの活用というような人たちは、新たな金儲けを考えているだけですね。エコ・ビジネスの一環です。太陽光というと、パネルなどを大量に生産することができる。あるいは、大量に電気自動車を作ることができる。しかし、サハラ砂漠ならともかく、日本では、太陽光発電そのものが環境破壊となる。そんなものは、いらない。…。要するに、先ず原発を止める。それからゆっくり考えればいいんです。

また、インタビューの冒頭から次のように言い切っている。

【柄谷】最初に言っておきたいことがあります。地震が起こり、原発災害が起こって以来、日本人が忘れてしまっていることがあります。今年の3月まで、一体何が語られていたのか。リーマンショック以後の世界資本主義の危機と、少子化高齢化による日本経済の避けがたい衰退、そして、低成長社会にどう生きるか、というようなことです。別に地震のせいで、日本経済がだめになったのではない。今後、近いうちに、世界経済の危機が必ず訪れる。それなのに、「地震からの復興とビジネスチャンス」とか言っている人たちがいる。また、「自然エネルギーへの移行」と言う人たちがいる。こういう考えの前提には、経済成長を維持し世界資本主義の中での競争を続けるという考えがあるわけです。しかし、そのように言う人たちは、少し前まで彼らが恐れていたはずのことを完全に没却している。もともと、世界経済の破綻が迫っていたのだし、まちがいなく、今後にそれが来ます。
 日本の場合、低成長社会という現実の中で、脱資本主義化を目指すという傾向が少し出てきていました。しかし、地震原発事故のせいで、日本人はそれを忘れてしまった。まるで、まだ経済成長が可能であるかのように考えている。だから、原発がやはり必要だとか、自然エネルギーに切り換えようとかいう。しかし、そもそもエネルギー使用を減らせばいいのです。原発事故によって、それを実行しやすい環境ができたと思うんですが、そうは考えない。あいかわらず、無駄なものをいろいろ作って、消費して、それで仕事を増やそうというケインズ主義的思考が残っています。地震のあと、むしろそのような論調が強くなった。もちろん、そんなものはうまく行きやしないのです。といっても、それは、地震のせいではないですよ。それは産業資本主義そのものの本性によるものですから。
 原発は、資本=国家が必死に推進してきたものです。原発について考えてみてわかったことの一つは、原発が必要であるという、その正当化の理論が日本では歴史的に著しく変わってきたということです。最初は、原子力の平和利用という名目で、核兵器に取り組むことでした。これはアメリカの案でもあり、朝鮮戦争ぐらいから始まった。このような動機は、表向き言われたことはありませんが、現在も続いている。つぎに、オイルショックの頃に、石油資源が有限であるという理由で、火力発電に代わるものとして原発の建設が進められるようになった。これもアメリカの戦略ですね。中東の産油国を抑えられなくなったので、原子力発電によって対抗しようとした、といえる。その次に出てきたのが、火力発電は炭酸ガスを出すから温暖化につながる、したがって、原発以外にはない、というキャンペーンです。実際には、原発はウラン燃料作り、原発建設、放射能の後始末などで、炭酸ガスの放出量は火力発電と違わない。だから、まったくの虚偽です。このように、原発正当化の理由がころころ変わるのは、アメリカのブッシュ政権時のイラク戦争と同じです。つまり、…。原発に関しても同じです。それが必要だという理由がころころ変わるということ自体、それが虚偽である証拠です。

そして・・。

しかも、放射能汚染水を海に垂れ流していますから、国際的な犯罪です。「東京(電力)裁判」が必要になると思う。というと、これから未来に向けて何かしなければならないときなのに、原発事故の責任を問うということは、後ろ向きでよくないという人がいます。しかし、過去の問題に対して責任を問うことは、まさに未来に向かうことです。これまで危険な原発を作ることに、なぜ十分な反対もできなかったのか。そのような責任の意識から、僕は今デモに行っています。
 若い人たちは違いますよ。生まれた時に、すでに原発があったから。だけど、今後に原発の存続を許せば、今回と同じことが起こるわけです。デモの先導車でラップをやっていた若い女の子が、もし原発を放っておいたら、未来の人たちに申し訳ない、という。そういう気持が若い人たちにもあるんだな、と思った。

「これまで危険な原発を作ることに、なぜ十分な反対もできなかったのか。そのような責任の意識から、僕は今デモに行っています」ーデモに行っている理由が私と同じだ!と思った(笑)。

以下に、柄谷行人の他のインタビューやスピーチをリンクしておく。(大文字、色文字は「雨音につつまれて」管理人ミルトスによる)

● 「デモという対抗」
 デモに参加したかなりの人たちは、昨年末の選挙結果にまいり、むなしいと感じてしまっている。ですが、私はデモを選挙と結び付けるべきではないと考えます。デモは選挙とは別なのだから、ただデモを続ければよい、と思う。
 もしデモによる反対の意思を選挙で示せというならば、政府は選挙で多数を得たものなのだから、次の選挙で反対せよ、デモなどやるな、ということになる。そもそも、議会は、国家がやりたいことを国民が自分で選んだかのように思わせる手の込んだ装置だと私は思います。選挙で人が意思を表示するというのは、幻想です。無理に選ばされているだけです。
 議会政治を無視するつもりはありません。しかし、彼らがやることに任せることはできない。
国家に何かをやってもらおうとすればいよいよ国家に従属することになる。重要なのは国家にすべて頼るのではなく、それ以外の自立の道を自分たちで考えていくことです。
(中略)
 デモの参加者が徐々に減るのは当たり前で、今も続き、定着していることがすごい。選挙前に威勢良く憲法改正などの持論を展開した安倍晋三首相が今、慎重なのも昨年のデモの盛り上がりがあったから。それはデモの一つの効果ですが、私はデモをそういう手段として見たくない。デモそのものが「目的」であり、効果があろうが、なかろうが、対抗運動を続けることが必要です。(抜粋引用)

そして、さらに・・。

● 「9・11原発やめろデモでのスピーチ/柄谷行人」
 私が受けるもう一つの質問は、デモ以外にも手段があるのではないか、というものです。確かに、デモ以外にも手段があります。そもそも選挙がある。その他、さまざまな手段がある。しかし、デモが根本的です。デモがあるかぎり、その他の方法も有効である。デモがなければ、それらは機能しません。今までと同じことになる。
(中略)
 …。福島原発事故は、片づいていない。今後もすぐには片づかない。むしろ、今後に、被曝者の病状がはっきりと出てきます。また、福島の住民は永遠に郷里を離れることになるでしょう。つまり、われわれが忘れようとしても、また実際に忘れても、原発のほうが執拗に残る。それがいつまでも続きます。原発が恐ろしいのはそのことです。それでも、人々はおとなしく政府や企業のいうことを聞いているでしょうか。もしそうであれば、日本人は物理的に終り、です。
 だから、私はこう信じています。第一に、反原発運動は長く続くということ、です。第二に、それは原発にとどまらず、日本の社会を根本的に変える力となるだろう、ということです。
 皆さん、ねばり強く戦いを続けましょう。(抜粋引用)

柄谷氏が語った通り、原発だけにとどまらず、今、日本中でデモが広がり始めている。


● 【風の声】 No.917(150913)
先日(9/6)出かけた下呂で、『8/30に国会前で行われた安保法案反対デモに参加した』と言う人たちに会いました。(抜粋引用)

● ライヴズ・イン・ザ・バランス:映画『映画 みんな!エスパーだよ!』と『テッド2』
いよいよ安保法案は山場を迎えようとしています。…。昨日も大阪では大規模抗議が行われ、2万人も集まったそうです。*その様子は是非こちらを→ 「うつぼ公園13日「民主主義ってなんだ?」「これだっ!」 - 四丁目でCan蛙」。広島でも7,000人の大規模抗議が行われました(下写真)。他の地域も盛り上がっています。
(中略)
駅前の広場が映ると、ここはyonnbabaさんがサイレントスタンディングをやっているところだ!「9.11豊橋駅前のコラボレーション - よんばば つれづれ」と思って嬉しくなりました(こんな映画で引き合いに出してすみません)。(抜粋引用)
そう言えば、「特別な1日(UNA GIORNATA PARTICOLARE)」のSPYBOYさんも「経済成長はしなくていい」とブログのどこかで書いておられたような記憶が・・?(ミルトス)