風と、光と・・・

すべての人を照らすまことの光があって、世にきた。(ヨハネによる福音書1:9)

葛原妙子44

使徒長き人差指に示したる羊なりしや葡萄なりしや『鷹の井戸』
「葛原妙子38」で「この歌の使徒は、イスカリオテのユダだろうかと何とはなしに思った」と書いたのだったが、町田俊之『巨匠が描いた聖書』(いのちのことば社の中のマティアス・グリューネヴァルト「キリストの磔刑」の解説を読んでいて、ヨハネだと分かった。
ヨハネによる福音書には、ヨハネは、自分の方へイエスが来られるのを見て言った。『見よ、世の罪を取り除く神の小羊だ』」(1:29)「その翌日、また、ヨハネは二人の弟子と一緒にいた。そして歩いておられるイエスを見つめて、『見よ、神の小羊だ』と言った」(1:35~36)と書かれているのだった。「見よ、神の小羊」と言ったのは洗礼者ヨハネであって、福音書を書いた使徒ヨハネではない。けれど、この記事はヨハネ福音書にのみ記されているものであり、イエスが言った有名な「わたしはまことのぶどうの木」(15:1)というのもヨハネ福音書にのみ記されている言葉である。



もう一首、『巨匠が描いた聖書』の中の『大工の聖ヨセフ』(ラトゥール作)を見て、思い浮かべた葛原妙子の短歌がある。

エヂプト逃避途上のやすらひをみる小額羽ある天使寄りたり『鷹の井戸』
エスは生まれるとすぐに、ユダヤの王ヘロデの手から逃れるために、神の言葉に従った両親に連れられてエジプトへと向かったのであるが、この歌はその途上の光景を描いた小さな額に入れられた絵画について詠っているようである。聖書には天使に羽があるように記されている箇所は無いようなのだが、宗教画の中で天使のあるべき姿というのが定められていったという過程があるようだ。この歌に詠まれている絵画が有名なものなのかどうかは全く分からないが、イエスに寄り添っている天使は羽を持つ天使として描かれていたようである。

しかし私がこの歌に注目したのは天使に羽があるかどうかではない。この歌がおかれている場所が問題だったのだ。この歌は、第八歌集『鷹の井戸』の中の「阿媽のごとくに」[連弾]の中におかれている。一連の十首を書き出してみる。

古ピアノの古音(ふるね)を起すわれをりて婆娑たるピアノ蘇りたり
長身影としあゆみ死にせる父連弾に加はりたまふ
半音の繁き連弾十歳のわれ弾き四十歳の父弾く
エヂプト逃避途上のやすらひをみる小額羽ある天使寄りたり
鳶色に褪せたる写真若者父はわが子に赦されたまはず
こよひわがかたはらにして弾きたまふ父疾風のごとうるはしき
死者焚けばま青(さを)き空の瀆るとふ ピアノに吾は死者を焚くなる
ながき夜に人うち連れて弾くピアノありとしもなき硝子を隔つ
みゆるごとあらはれながらとこしへにみえざるものを音といふべき
何の影すさびつつ過ぐたまゆらに弾く音絶えし黒白(こくびやく)の鍵(けん)


この一連を初めに目にした時、「エヂプト逃避」の歌がここにおかれているのが引っかかった。亡き父と連弾をする幻想を詠んだ一連の中に唐突に出てくるのである。けれど、この小さな額がピアノのある部屋の壁に掛けてあったのだろうと考えて、心に納めた。ところが、『大工の聖ヨセフ』の絵を見ていて、再びこの短歌が頭の中に浮かび上がってきたのだった。

彼女は男の子を産むであろう。その名をイエスと名づけなさい。彼は、おのれの民をそのもろもろの罪から救う者となるからである(マタイによる福音書1:21)
大工のヨセフは、いいなずけが自分の与り知らぬ子を身籠もるという事態に直面するのである。しかもそれは、神から自分に与えられた使命であったのだ。救い主となるイエスのこの世の父という過酷な使命を与えられて、しかしヨセフはそれに従い、速やかに行動してイエスを守り通す。
彼らが帰って行ったのち、見よ、主の使が夢でヨセフに現れて言った、「立って、幼な子とその母を連れて、エジプトに逃げなさい。そして、あなたに知らせるまで、そこにとどまっていなさい。ヘロデが幼な子を捜し出して、殺そうとしている」。そこで、ヨセフは立って、夜の間に幼な子とその母とを連れてエジプトへ行き、ヘロデが死ぬまでそこにとどまっていた。それは、主が預言者によって「エジプトからわが子を呼び出した」と言われたことが、成就するためである。(マタイによる福音書2:13~15)
さて、ヘロデが死んだのち、見よ、主の使がエジプトにいるヨセフに夢で現れて言った、「立って、幼な子とその母を連れて、イスラエルの地に行け。幼な子の命をねらっていた人々は、死んでしまった」。そこでヨセフは立って、幼な子とその母とを連れて、イスラエルの地に帰った。しかし、アケラオがその父ヘロデに代ってユダヤを治めていると聞いたので、そこへ行くことを恐れた。そして夢でみ告げを受けたので、ガリラヤの地方に退き、ナザレという町に行って住んだ。これは預言者たちによって、「彼はナザレ人と呼ばれるであろう」と言われたことが、成就するためである。(マタイによる福音書2:19~23)

この「エヂプト逃避」の歌には、葛原妙子の「父」への複雑な思いが現れている。
マタイ福音書2章15節に「それは、主が預言者によって『エジプトからわが子を呼び出した』と言われたことが、成就するためである」と記されているように、「神」である「父」と、「人」である「父」への妙子の思いが表されているからである。しかも、イエスを守り通した人間の父であるヨセフに対して、葛原妙子の父は妙子を自らの手元において育てることをしなかったのである。さらに、イエスの本当の父である「神」は、イエスを十字架につけるためにこの世に遣わしたのである。このことがこの歌を複雑なものにしている。

この流れの中に次のような短歌がおかれているのは真に象徴的であると言わなくてはならない。

みゆるごとあらはれながらとこしへにみえざるものを音といふべき『鷹の井戸』
これは全く、「神」について詠った歌であると言い切って良いだろう。「音」だけが漢字表記で強調されている。しかも語尾が連体形の「べき」で終わっている。この後には、例えば「かな」が続くと考えられる。「かな」とは、感慨を表す終助詞である。

最後にある「黒白の鍵」の歌の「黒白」も「父なる神」を表しているだろう。「子を守る父」と「過酷な運命に子を追いやる父」の両面を「白」と「黒」に象徴的に表していると言える。

エスはある所で祈っておられたが、それが終ったとき、弟子のひとりが言った、「主よ、ヨハネがその弟子たちに教えたように、わたしたちにも祈ることを教えてください」。そこで彼らに言われた、「祈るときには、こう言いなさい、『父よ、・・(ルカによる福音書11:1~2)

あなたがたの父なる神は、求めない先から、あなたがたに必要なものはご存じなのである。だから、あなたがたはこう祈りなさい、天にいますわれらの父よ、・・(マタイによる福音書6:8~9)

さて、一同はゲツセマネという所にきた。そしてイエスは弟子たちに言われた、「わたしが祈っている間、ここにすわっていなさい」。そしてペテロ、ヤコブヨハネを一緒に連れて行かれたが、恐れおののき、また悩みはじめて、彼らに言われた、「わたしは悲しみのあまり死ぬほどである。ここに待っていて、目をさましていなさい」。そして少し進んで行き、地にひれ伏し、もしできることなら、この時を過ぎ去らせてくださるようにと祈りつづけ、そして言われた、「アバ、父よ、あなたには、できないことはありません。どうか、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの思いではなく、みこころのままになさってください」。(マルコによる福音書14:32~36)

この文章を書きながら、私はふと、「キリスト教徒」とは大きな物語を与えられている者達なのではないか、と思った。与えられた物語を生きようとする者達を「キリスト教徒」と呼ぶのではないか、と。

関連「葛原妙子35」
  ↓
http://d.hatena.ne.jp/myrtus77/20130204/p2