風と、光と・・・

すべての人を照らすまことの光があって、世にきた。(ヨハネによる福音書1:9)

葛原妙子38

使徒長き人差指に示したる羊なりしや葡萄なりしや『鷹の井戸』

この歌の使徒は、イスカリオテのユダだろうかと何とはなしに思った。それで、イエスを捕らえようとして来たときにユダがイエスを指さしたと書かれている聖書の箇所があるかどうか調べてみた。が、見当たらなかった。

若い頃読み囓って放り投げていたパスカルの『パンセ』を久しぶりに開いて、傍線を引いたユダについての断章を見つけた。
エスはユダのうちに敵意を見ず反って愛する神の命令を見たもう。敵意を少しも見たまわぬゆえにユダを友とよびたもう。(パスカル『パンセ』より)

この言葉を、パスカルはマタイ福音書を根拠として記したと思う。
エスは、「友よ、しようとしていることをするがよい」と言われた。(マタイによる福音書26:50)

ユダが救われたかどうかということは若い頃からの関心事だった。30数年経っても興味関心の対象が若い頃とほとんど変わっていないということに我ながら驚くほかないのだが・・。
葛原妙子もユダについて関心を持っていたに違いないと思う。

葛原妙子がユダについて詠った短歌を年代順に書き出してみる。

「ラビ安かれ」裏切のきはに囁きしかのユダのこゑ甘くきこゆる『原牛』

桃畑愛せしユダよみづからの桃の畑にくびれしや否や『朱靈』

みづからを括りしイスカリオテのユダ家も畑もありし青年『をがたま』

『朱靈』には桃について詠った歌が他にもある。

あまやかに匂へるものはまろびゐつ密毛ふかき青き桃 白き桃『朱靈』
月のひかりさびしきまでに差しをればいづこよりぞ桃の香は立つ

ユダが桃畑を愛していたのかどうかは全く分からない。もしかしたら聖書のどこかに書いてあるのかも知れないが・・。桃の香りの甘やかさが裏切りを連想させたのかも知れない。『朱靈』の歌は、その甘い香りによって誘惑され不正を働いて得た畑で死んだのかと、ユダに向かって詠っているようだ。

「兄弟たち、イエスを捕らえた者たちの手引きをしたあのユダについては、聖霊ダビデの口を通して預言しています。この聖書の言葉は、実現しなければならなかったのです。ユダはわたしたちの仲間の一人であり、同じ任務を割り当てられていました。ところで、このユダは不正を働いて得た報酬で土地を買ったのですが、その地面にまっさかさまに落ちて、体が真ん中から裂け、はらわたがみな出てしまいました。このことはエルサレムに住むすべての人に知れ渡り、その土地は彼らの言葉で『アケルダマ』、つまり、『血の土地』と呼ばれるようになりました。詩編にはこう書いてあります。『その住まいは荒れ果てよ、そこに住む者はいなくなれ。』また、『その務めは、ほかの人が引き受けるがよい。』(使徒言行録1:16~20)

マタイによる福音書には、「ユダは・・、首をつって死んだ」(マタイ27:5)と書かれている。使徒言行録の「その地面にまっさかさまに落ちて」というのは、「不正を働いて得た報酬で買った土地」というところから象徴的に言われているのであろうか?ここから、予定されていた(落ちるという)事故によって死んだととらえる説もあるようだが・・?


さて、しかし又この歌の中には、桃畑を愛したユダがせめても愛した桃の畑で死んだならという思いをかすかに潜ませていると思うのは、思い過ぎだろうか。最終歌集『をがたま』の歌からは、ユダの側に立った妙子の心情が垣間見える。ユダは家も畑も持っていたのだからお金のために裏切ったのではないのだと。
聖書には、ユダにサタンが入ったと書かれている箇所がある。
「この一きれの食物を受けるやいなや、サタンがユダにはいった」(ヨハネによる福音書13:27)

ユダは、サタンに入られたために裏切ったのであり、お金を必要としていたために裏切ったのではない、ということだ。


エスを裏切ったユダは、イエスが罪に定められたのを見て後悔し、銀貨三十枚を祭司長、長老たちに返して言った、「わたしは罪のない人の血を売るようなことをして、罪を犯しました」。しかし彼らは言った、「それは、われわれの知ったことか。自分で始末するがよい」。そこで、彼は銀貨を聖所に投げ込んで出て行き、首をつって死んだ。(マタイによる福音書27:3~5)
祭司の務めとは、神と民の間に立って罪の贖いの祭儀をとり行うことではないか。しかし、ユダのために祭司長達が罪の贖いをすることはなかった。否、祭司長達にも出来なかったのだ。ユダは自分で自分の始末をつけた。ユダは自分を赦すことが出来なかった。しかし赦しはキリストから来るのである。

ここで、『パンセ』の言葉にもう一度戻ろう。「イエスはユダのうちに神の命令を見たもう」と書かれている。聖書には、イエスがユダに「しようとしていることを、今すぐするがよい」(ヨハネによる福音書13:27)と言われた、と書かれてある。しかもこの言葉は、サタンがユダに入った直後に言われた言葉なのだ。

この一きれの食物を受けるやいなや、サタンがユダにはいった。そこでイエスは彼に言われた、「しようとしていることを、今すぐするがよい」。(ヨハネによる福音書13:27)
ユダはイエスを裏切らなければならなかった。祭司長達に売り渡さなければならなかった。ユダの裏切りはペテロの裏切りとは違うのだ。ユダが裏切らなければ神の業は進まないのだ。ユダの裏切りはそのように神からの任務を背負った裏切りだったのである。だが、それにしてもユダは死ななければならなかったのだろうか?

たしかに人の子は、自分について書いてあるとおりに去って行く。しかし、人の子を裏切るその人は、わざわいである。その人は生れなかった方が、彼のためによかったであろう。(マルコによる福音書14:21)

若い頃から引っかかっていた言葉だ。けれど今では、この言葉ほどイエスのユダへの憐れみが表されている言葉はないと思う。私にはこの言葉から、「私を裏切るなどというこんな辛い務めを負わされて、ユダよ、おまえの人生は何と不幸であることか。生まれて来ない方がおまえには良かったと思えるほどだ」ーそのようなイエスの言葉が聞こえてくるように思える。イエスを裏切りながらその後も生きて行くことなど出来なかったろう。イエスはその苦しみを知っていたはずだと私は思う。そしてそのユダのためにも、ユダの罪を贖うためにもイエスは十字架へと歩まれたのだ。

このような歌を読みながら、妙子もユダに対して私と同じような思いを持っていたに違いないと思ったのだった。