風と、光と・・・

すべての人を照らすまことの光があって、世にきた。(ヨハネによる福音書1:9)

『こころのごはん』宮葉子=著(いのちのことば社)

私のブログの友人、「牧師館のお茶会」の宮葉子さんが素敵なご本を出された。
『こころのごはんー日々をささえる聖書のことば30』(いのちのことば社「大人のための子どもの本の読書会」の主催者でもある著者は1章を『クマのプーさん』の引用から始めている

人はパンだけで生きるのではなく、
神の口から出る
一つ一つのことばによる。

 毎日、何を食べていますか?
 『クマのプーさん』で親友のコブタが尋ねます。
 「プー、きみ、朝おきたときね、まず第一に、どんなこと、かんがえる?」
 「けさのごはんは、なににしよ?ってことだな」と、プーがいいました。
 「コブタ、きみは、どんなこと?」
 「ぼくはね、きょうは、どんなすばらしいことがあるかな、ってことだよ」
 プーは、かんがえぶかげにうなずきました。
 「つまり、おんなじことだね」と、プーはいいました。

と、こんなふうに。

届いた本をちらちら捲っていて『ハイジ』の文字を見つけた時、子どもの頃に『ハイジ』が大好きだった友人の顔を思い浮かべた。そして、クリスマスにプレゼントしよう!と思った。

縦 165mm、横130mm。本のサイズも、片方のてのひらに乗せてもう片方のてのひらで撫でさすりたくなるような大きさだ。


どの章も4ページほどの長さで易しく書かれ、とても読みやすく心に残るのだが、なかでも私の心に最も働きかけてきたのは、13章。

赦しなさい。
そうすれば、
自分も赦されます。

「赦しなさい。そうすれば赦される」ーこの言葉は、赦せない思いに苦しんだことがなければさらりと読んで通り過ぎてしまうだろう。けれど、赦せない思いに苦しんだ者は必ずここで立ち止まることになる。だが、もしこの言葉の前に一人で立つなら、多くの場合、うなだれてここから立ち去る他ないだろう。聖書とは一人で読むものではないからだ。
聖書の中には「愛するとは共に生きることである」という命題が孕まれている。だから、「愛するとはどういうことか」という問いを持たない者にとっては、聖書は、自分とは何の関係もない無益な書物と同じだろう。けれど、愛することを求め、赦すことを求めて隣人と共に生きようとする時、聖書の言葉は立ち上がり、動き出し、向かってくる。

本文から抜粋引用しよう。

 ・・。苦い根の中でも「赦せない」という思いは厄介です。心を破壊し、人生をも破壊していくほどの力です。
         ・
 聖書は赦しの原則について、思いがけないことを教えます。赦せば赦される。・・。相手の仕打ちを帳消しにするのではありません。赦せない問題を背負うのをやめ、神である私に手渡しなさいという意味です。『赤毛のアン』の登場人物たちのように、赦せない思いにとらわれたその心から出る時、人生の新鮮な展開が待っています。

「赦す」というのは「赦せない思いを神に向かって手放すこと」なのだ。「赦せない思いにとらわれたその心から出る時」ーつまり「赦せない思いを手放した時」、私達は赦せないという苦しみから解放され、手放すと同時に赦されるのだ。私はここを読んで、何度も何度も手放したいと思った。赦せないという思いにとらわれるたびに、その都度その都度、手放していこうと思った。神に向かって。


そしてやはり最終章は圧巻だ。

神は愛なり
最後の部分を引用する。

 「無関心」。恐ろしいことばだと思います。「愛」の対局にあることばです。終わりの時代になると、「多くの人たちの愛は冷たくなります」と聖書は言います。
 私たちはもう一度、愛を取り戻したいと思います。
 「愛を追い求めなさい」
 聖書は繰り返しすすめます。
 人はだれかと関わり合う時、初めて愛を体験します。愛は孤立の中からは生まれません。だれかと、家族と、親族と、友人と、仲間と、昔の知り合いと、まちの人と、行き交う人と、遠くで暮らす人と、そして、神と。
 いつまでも消えない愛から、すべては始まります。

どうか多くの方が著者と一緒に聖書の言葉の前に立つことが出来ますように。そして愛を追い求めて生きることが出来ますように。



結婚式11月24日連休のど真ん中の土曜日、会堂で結婚式が行われた。
その2週間ほど前に、花嫁の母が教会を訪ねて来られた。「ここで、結婚式をしていただけないでしょうか」と。世界遺産である熊野古道で熊野詣での衣装をつけて結婚式を行う場所があるらしい。そこに予約を入れていたつもりが入っておらず、遠方から身内が来るということもあって、慌ててうちに頼みに来られたのだ。
キリスト教の教会にとって結婚というのは、キリストと教会の関係に譬えられるほど大事なものだから、結婚式をしようという場合は聖書の学びを受けなければならない。けれどこのお二人は、短い期間の多忙の中、牧師から学びを受けて、結婚式に臨まれた。
参列はお身内だけで、教会員は牧師と私のみ。そこで讃美歌は牧師と私で、讃美歌21の42−1を歌うことにした。式の初めと誓約の後に、2回ずつ繰り返して・・。

感謝せよ主に めぐみふかい主に
感謝せよ主に ハレルヤ

けれどこの讃美歌、結婚式にぴったりだ。人生を共に歩む人を与えられたのだから。
「めぐみふかい主に感謝せよ!」と、心から歌わせていただいた。
そして花嫁には、結婚のお祝いに『こころのごはん』(宮葉子=著)をプレゼントした。


ホワイトチャペル(子どものための礼拝堂)

これは、教会創立100年の記念として子どものために建てられた礼拝堂だ。
普通に会堂を建てることもなかなか出来ず場所を借りて礼拝していたり、小さな会堂しか建てられない教会もたくさんあるというのに、会堂とは別にこんな会堂を持っているなんてなんと贅沢なことだろうと思う。しかも使われるのは毎週日曜の朝の一時間ほどなのだ。そして、今はその子どもがたった一人きり。
けれど、ここに建っているということが大事なのだ、と思う。子どものための礼拝の場所がここに建っているということが。ここで、子どもだって神様に出会うことができる!

そのとき、イエスに手を置いて祈っていただくために、人々が子供たちを連れて来た。弟子たちはこの人々を叱った。しかし、イエスは言われた。「子供たちを来させなさい。わたしのところに来るのを妨げてはならない。天の国はこのような者たちのものである。」(マタイによる福音書19:13~14)
イエス・キリストが人間の子供となって私達のところに来られたクリスマスの季節が、今年もまためぐってきた。

「見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。」この名は、「神は我々と共におられる」という意味である。(マタイ福音書1:23)
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