風と、光と・・・

すべての人を照らすまことの光があって、世にきた。(ヨハネによる福音書1:9)

大きく大きく拡がった格差社会

今日になって、格差社会という言葉を目にするようになった。
昨日私も、楽天のほうのブログにいただいたコメントへの返信で格差社会についてこんなふうに書いたのだった。

増税を掲げているのは、社会主義の人たちではなく、「自由」や「民主」を旗印に掲げている人たちです。昔は、ある程度お金持ちが高い税金を払う仕組みになっていましたが、今は逆です。政権を握った者たちが貧乏人が高い税金を支払うように変えてきたからです。
どうしてこんな酷い格差社会になってしまったのだろうか?
私は、私達が自分が豊かになることばかりを追求して来たからだと思う。
自分が豊かになること、自分だけが豊かになることを追求する者には人のためにお金を出すことなど考えられない話である。そのような人々が社会主義共産主義を旗印とする党に票を入れることなどあり得ないのだ。国民も、政治家も、誰よりも先ず自分が豊かになることを追求して来た。こうして自分を豊かにしてくれる政党を求めて投票し続けてきた結果、貧しい者がますます貧しくなる社会に変わってしまったのだ。

私は特定の政党の党員ではないし、特定の政党を支援しているわけでもない。
けれど、少数の政党の存在はなくてはならないと思っている。大きな政党一党では選ぶ自由を持つことが出来ない。又、二大政党でも右か左かになってしまう。大きなものしか存在しない社会というのは貧しい社会なのだと思う。小さな政党の存在は新しい可能性を確保する。新しい道があるかもしれないという希望をもたらす、と私は思う。

私達にとっては、人のために生きるということはそう容易く出来ることではない。けれど、自分のためだけに生きるのではなく人のために生きようとするとき、自己という括りから解き放たれて、本当の自由を手に入れることが出来る。そして、本来の豊かさの中で本当に生きることが出来るようになるのだと思う。

自分の命を救おうとするものは、それを失い、それを失うものは、保つのである。(ルカによる福音書17:33)
聖書の中にはこのような生き方が描かれている。ヘセド(慈しみ)に生きるとき、自分も隣人も豊かに恵まれる。

あなたがたの地の穀物を刈り入れるときは、その刈入れにあたって、畑のすみずみまで刈りつくしてはならない。またあなたの穀物の落ち穂を拾ってはならない。貧しい者と寄留者のために、それを残しておかなければならない。わたしはあなたがたの神、主である』」。(レビ記23:22)

あなたが畑で穀物を刈る時、もしその一束を畑におき忘れたならば、それを取りに引き返してはならない。それは寄留の他国人と孤児と寡婦に取らせなければならない。そうすればあなたの神、主はすべてあなたがする事において、あなたを祝福されるであろう。(申命記24:19)