風と、光と・・・

すべての人を照らすまことの光があって、世にきた。(ヨハネによる福音書1:9)

葛原妙子3

寒き日の溝の邊(へり)歩み泣ける子よ素足のキリストなどはゐざるなり 「飛行」
今回とりあげる葛原妙子の短歌はこれだ。しかし、この短歌をもって妙子が信仰を持たなかったと即断するのはどうだろうか。「キリストなどはいない」と断定してはいるのだが・・。

究極には、私は、一人の人間が信仰を持って生きたか死んだか等ということは、神お一人だけが言及できる事柄だと思っている。人の心の内側を外からだけ見て、ああだこうだと言うことなど誰にもできはしない。

ただ、私は神の前に信仰を告白して信仰者として生きている身ではある。しかし又こうも言える。信仰者といえども生身の人間であるということだ。切れば血の出る体も持っていれば、時に意気消沈する心も持っているのである。現実の悲惨を前にして、信仰が無力化してしまうように思えることはいくらでもあるのだ。目の前で悲しんでいる者に向かって「キリストはあなたの悲しみを共に担っていてくださる」などと言う言葉が、どれほど空疎に聞こえることだろうかと。信仰を告白していようと、そのような思いに囚われてしまうことはいくらもあるのである。


カラマーゾフの兄弟』の中で、次兄のイワンが世界中で起こっているという幼児虐殺の実態をアリョーシャに語る場面がある。この場面で、イワンが「何のために子供たちまで苦しまなけりゃならないのか」と問うた問いが、妙子のこの歌の中に流れている情動に通底している、と私は思う。この歌は、子どももキリストも突き放して、読む者に冷たく響くように思えるだろうが・・。


世の中で起こっている不条理を前にした時、私達は「神などいない」と呟くのだ。「神はいない」「神は死んだ」と。「寒い日に泣きながら溝のへりを歩いている子供よ、おまえの悲しみを担ってくれる救い主などという者はこの世に居はしないのだ」と。けれど・・。

わが神、わが神、なにゆえわたしを捨てられるのですか。なにゆえ遠く離れてわたしを助けず、わたしの嘆きの言葉を聞かれないのですか。(詩篇22:1〜)
この問題は、それほど容易く片付けられる事柄ではないだろう。続けて問うていきたいと思う。


妙子には素足のキリストを詠った歌が他にもある。
市に嘆くキリストなれば箒なす大き素足に禱りたまへり 「鷹の井戸」
この歌がおさめられている歌集「鷹の井戸」は、先の歌がおさめられている「飛行」より後に出されたものだが・・。