風と、光と・・・

すべての人を照らすまことの光があって、世にきた。(ヨハネによる福音書1:9)

葛原妙子4

市に嘆くキリストなれば箒なす大き素足に禱りたまへり 「鷹の井戸」

この短歌を一読すれば、ある人はすぐさま、「イエスの宮清め」といわれる聖書の記事を思い浮かべるだろう。

エスは宮に入り、宮の庭で売り買いしていた人々を追い出しはじめ、両替人の台や、はとを売る者の腰掛をくつがえし、また器ものを持って宮の庭を通り抜けるのをお許しにならなかった。そして、彼らに教えて言われた、「『わたしの家は、すべての国民の祈りの家ととなえられるべきである』と書いてあるではないか。・・」(マルコ11:15〜17)
ここのところはヨハネによる福音書(2:16)では、
鳩を売る者たちに言われた。「このような物はここから運び出せ。わたしの父の家を商売の家としてはならない」
と書かれている。わたしの父とは、すなわち父なる神のことである。イエスは父なる神に常に祈りを捧げておられた。この場面でイエスが祈られたという記述はないが、妙子は、「(わたしの父の家は)祈りの家ととなえられるべきである」という記述を歌の中に取り入れるために、「禱りたまへり」と表現したと思われる。当然、ここの主語はキリストである。素足の状態で父なる神に祈りたまうのは、キリストでなければならない。


この短歌は、『葛原妙子全歌集』(砂子屋書房)では索引の「し」の中に入れられている。しかし「市」を「し」と読んだのでは地方自治体を思い浮かべてしまうように思う。「いち」と読んだのでは定型に納まりきらないが「いち」と読む方が相応しい、と私には思えるのだが・・。


神殿の境内では神へ捧げる捧げ物の売り買いが行われていた。神に祈りを捧げる場が市場と化していたのだ。それをイエスは一掃された。であるから、「箒なす足」なのだろう。しかも「大き素足」である。歌集『飛行』の中で「素足のキリストなどはゐざるなり」と詠った妙子であるが、ここでは、キリストは素足で(ゐ)なくてはならなかったのではないだろうか。キリストのイメージが「素足」であればこそ、「箒なす大き足」が見えたと言えるだろう。

マルコによる福音書の「すべての国民の祈りの家」という言葉に注目したい。神殿の中はその身分によって出入りする場所が決められていたようだ。そして、すべての国民が隔てなく神に祈る(語りかける)場が、お金を出して買った物との交換によって神にまみえることが許される場へと変わってしまっていたというのだ。イエスはそれを一掃されたのである。妙子のこの歌には、イエスへの敬意の念が表されていないだろうか?