終活で本を片付けていかなければと言いながらまたこんな本を買ってきて、と思いながら、夫の買ってきた文庫本をちらちら捲っていた。すると、「レヴィナス」が目に入った。
以下に一頁にまとめられた「レヴィナス すべてを絶対的他者に与えること」を全文引用させて頂く。
レヴィナス
すべてを絶対的他者に与えることやましいことがあるとき、誰かにじっと見られるとどきどきします。銃殺刑に処される者に目隠しをするのは、射手が相手の目を見ながらだと引き金を引くことはできないからだと言われます。
路傍の子猫、まして捨て子にすがるような目で見られたら、捨て置くわけにいきません。一度、世話をはじめたら生涯をその子に捧げることになるかもしれません。こうして、顔に応答したとき、他者への無限責任が生まれます。
顔にわたしが応答するのは、それを裏切ることに羞恥をおぼえるからです。羞恥は、自分であることにいたたまれなくなる、自分から逃げ出したくなる衝動です。羞恥に襲われると、わたしは内面を切り崩され、空になり、自分を超えたものを求めざるをえなくなるとレヴィナスは考えます。わたしにこのようにして無限責任を課す顔が絶対他者です。
絶対他者にわたしは無限責任を負うばかりなので、他者とわたしの関係は非相互的、非対称的です。そのとき、もはやわたしは自律的なカント的人格ではありえません。
キリスト教は、人類史が最後の審判で完結するものとし、デカルトは世界全体を認識対象とし、カントの理性的人格は、普遍的に妥当する立法の主体でした。これらはすべて、そう語る者の視点からすべてを意味づける「全体性」の形而上学だとレヴィナスは批判します。すべてを絶対他者に委ねるレヴィナスは、全体性の形而上学を、そして西洋哲学全体を転覆するのです。
(貫成人=著『大学4年間の哲学が10時間でざっと学べる』より)
(太字は、著者自身によるものです)
これを読んで、なるほどレヴィナスはやはり旧訳世界の人だと思った。
旧約聖書には、「神の顔を直接見ると死ぬ」という言い伝えや言い回しが出てくる。
ヤコブは、「わたしは顔と顔とを合わせて神を見たのに、なお生きている」と言って、その場所をペヌエル(神の顔)と名付けた。(創世記32:31 新共同訳)
神は続けて言われた。「わたしはあなたの父の神である。アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である。」モーセは、神を見ることを恐れて顔を覆った。(出エジプト記3:6 新共同訳)
また言われた。「あなたはわたしの顔を見ることはできない。人はわたしを見て、なお生きていることはできないからである。」(出エジプト記33:20 新共同訳)
更に、主は言われた。「見よ、一つの場所がわたしの傍らにある。あなたはその岩のそばに立ちなさい。わが栄光が通り過ぎるとき、わたしはあなたをその岩の裂け目に入れ、わたしが通り過ぎるまで、わたしの手であなたを覆う。わたしが手を離すとき、あなたはわたしの後ろを見るが、わたしの顔は見えない。」(出エジプト記33:21~23 新共同訳)
他にも、
ギデオンは、この方が主の御使いであることを悟った。ギデオンは言った。「ああ、主なる神よ。わたしは、なんと顔と顔を合わせて主の御使いを見てしまいました。」主は彼に言われた。「安心せよ。恐れるな。あなたが死ぬことはない。」(士師記6:22,23 新共同訳)
これは、貫氏が「やましいことがあるとき、誰かにじっと見られるとどきどきします」と書かれているように、人が罪を抱えているという認識に基づいている、と言える。
姦淫する者の目は、夕暮れを待ち だれにも見られないように、と言って顔を覆う。(ヨブ記13:24 新共同訳)
『罪と罰』のエピローグで、ラスコーリニコフがソーニャの足もとに身を投げる場面を思い起こす。
彼はちらりとすばやく彼女を見やると、ひとことも言わず、目を伏せて地面を見つめた、(略)
どうしてそうなったのか、彼は自分でも知らなかった。ただ、ふいに何かが彼をつかんで、彼女の足もとに身を投げさせた。彼は泣きながら、彼女の両膝を抱えた。(岩波文庫『罪と罰 下』p400~401)
「キリスト教は人類史が最後の審判で完結するもの」だとし、それをレヴィナスは「全体性」の形而上学だとして批判した、というのも肯ける気がした。教理に重心を置くとき、キリスト教会という組織が力を持つとき、確かにそこに陥りやすくなるように思える。しかし又、それは片側だけを見ているからだと言うことも出来る。
けれどこの続きはまた別の記事で・・。