風と、光と・・・

すべての人を照らすまことの光があって、世にきた。(ヨハネによる福音書1:9)

内田樹=著『レヴィナスと愛の現象学』から「ツィム・ツム(ヘブライ語の原義は「収縮」)」

さらに脱線するが、世界を創造するために、まず造物主が「身を引いた」というこの考想には、「起源を起源づけるような起源」、「女性態における神」という概念に通じるものがある。「女性態における神」は「シェキナー」と呼ばれる。そのヘブライ語原義は「住まい」である。『申命記』に「あなたの神、主が御名を置くために選ぶ場所」(一二章二一節)と表現されているのがそれである。
 世界における神の栄光の臨在あるいは住まいを意味するシェキナーは、ときには聖域を意味し、ときには栄光として預言者に臨み、ときには「妻」とも呼ばれる。
 レヴィナスの「住まい」はあとで見るように「女性原理に支援された創造」を意味しているが、「住まい」と「女性」と「神」を連想的に結びつける「シェキナー」という概念がユダヤ教にはある、ということは記憶にとどめておいてもいいだろう。(内田樹=著『レヴィナスと愛の現象学』(文春文庫)p.209より)

過去記事『「ラーハム」とは「子宮から広がる思いやり」』でも書いたように、私などはキリスト教の三位一体から神の中には女性的なものもあるであろうと想像するのだが、ユダヤ教の中には「神」と「女性」を結びつける概念があるということが、上掲の『レヴィナスと愛の現象学』からの引用を読むと解る。

少しとばして、p.234からも引用しよう。

レヴィナスパスカルのこの言葉を「陽の当たる場所を要求するというただ一つのことによって、私はすでに大地を簒奪している」(EL,p.115)と解釈している。だとすれば、大地の簒奪に与しないものは、「光の当たる場所から遠ざかる」ことになるだろう。世界の起源にあるのはこの創造的贈与である。
 さきに触れたルリア派の「ツィム・ツム」は私たちに「場所を空ける」ことによって神が世界を創造したという説話原型が存在することを教えてくれた。パスカルとルリアを合わせて読むと、「光から身を隠す慎み深さ」に託された存在論的機能は、能動性に対する単なる受動性や、権威に対する隷従を意味するものではなく、むしろ神の創造行為、倫理の起点標識を意味することが知られるのである。世界を創始するためには、大地の簒奪が停止されるためには、誰かが「光から逃れ」、場所を空けなくてはならない。その創造的贈与者を、レヴィナスでは、経験的な性別とは別の次元で、「女性」と呼ぶのである。
(「EL」=『暴力と聖性』)(『レヴィナスと愛の現象学』)

もう一箇所p.222から、レヴィナスの書いた原書からの訳部分は省略して、内田氏の解説だけを引用しよう。

 「他者」との出会いの経験とは、これまでの了解では、私を超越しつつ私に直接語りかける何ものかと直面することであった。しかし、「家」で私を待っている「他者」は単に超越を告知するだけのものではない。それは何よりもまず、私を「歓待する」のである。そこに「私のための場所」をしつらえるべく、「場所を空けてくれる」のである。
    (略)
「家」に私を迎える「他者」は「家」の奥へと身を退き、姿を消すことによって、その存在をあらわにする。(『レヴィナスと愛の現象学』)

内田氏の解説するこの部分は、レヴィナスの思想の中でももっとも美しいものではないかと思う。しかし私はここからキリストを思い浮かべる。

わたしの父の家には、すまいがたくさんある。もしなかったならば、わたしはそう言っておいたであろう。あなたがたのために、場所を用意しに行くのだから。そして、行って、場所の用意ができたならば、またきて、あなたがたをわたしのところに迎えよう。わたしのおる所にあなたがたもおらせるためである。(ヨハネによる福音書14:2,3)

人間の頭で、「神は男性的、キリストは女性的」等と決めつけるような単純で愚かな考えを述べたいとは思っていないのだが、反面、キリストにおいて女性的なものが表出されているように思えるのも事実だ。

ここで、レヴィナスはキリストを考想していたのではないか、と私は思う。ヨブが弁護者を考想したように。詩編の詩人達が助け主を求めたように。旧約の民が救い主を待望したように。

 

しかし、このもっとも美しいと思われるレヴィナスの考想にはフェミニストからの激しい批判が集まった、と言う。

レヴィナスへのフェミニスト達の批判の果てにおいて、内田氏は、両者における「他者」とは何かという「根源的な問題に対する構えの違い」を指摘しているが、これは、有神論的実存と無神論的実存の違いのように私には思える。

少し長いが、その手前の所までを引用する。p.258から。

どれほど「正統的に道徳的な高度」に達する営みであろうとも、私と「他者」が等格であり相称的であることを前提としてモラルを構築しようとする限り、(そしてまさにボーヴォワールがしようとしているのは、そのことなのだが)そのモラルには決定的な脆弱性がある。それは、自由と自由が相剋的な立場で向き合っているとき、さきに矛を収めて、「友情と雅量」を示すのが、相手ではなく私でなくてはならない理由が私の側にはないからである。相手に対して「友情と雅量」を示さないからといって、私の主体としての基礎は少しも揺らぐことがないからである。
 なぜ「美徳」がまず私に要求され、まず「他者」には要求されないのか、それを相互性のモラルは説明することができない。
 相称性の上に倫理を構築することはむずかしい。というより原理的に不可能である。これはレヴィナスが「私と君」の相互性に基づいてその哲学を構想したマルチン・ブーバーを批判したときの中心的な論点であった。レヴィナスはこう述べている。
    (略)
 相互性という考え方は、平たく言えば「私と君の立場は交換可能だ」ということである。だから、自分がされたくないことは人にもしない、自分がされてうれしいことは人にもしてあげる、という「合理的」な推論に基づいて道徳的な行動が動機づけられるのである。(略)。
 しかし、相互性の道徳からは、どうやっても、「私はあなたより多くの責務があり、あなたは私より多くの権利がある」という言葉は導出されない。しかし、レヴィナスが求めているのは、まさにその言葉なのである。その点において、レヴィナスはそれまでのどの道徳哲学者よりも過激である。
 レヴィナスが繰り返し引く『カラマーゾフの兄弟』の一節。「私たちは全員がすべてについて、おたがいに対して、罪を負っています。そして私は他の誰よりも罪が深いのです(略)」。
 ボーヴォワールの説く相称性の道徳はこのアリョーシャの言葉の前半部分だけに基づいている。私たちは「等しく」有罪である、ボーヴォワールはそう主張する。だが、「私は他の人々以上に有罪である」という言葉は続かない。むしろ、ボーヴォワールフェミニストの立場から、「他の人々(男性およびその共犯者である女性)は私以上に有罪である」という主張を繰り返すことになる。(『レヴィナスと愛の現象学』)

ここで私は、レヴィナスは「罪」というものをどう理解していただろう、と考える。レヴィナスが繰り返し引くという『カラマーゾフの兄弟』の一節は、ドストエフスキー自身の罪意識から出た言葉であろう。すなわち、日記の中で記されているという「キリストの教えどおり、人間を自分自身のように愛することは不可能である」という罪意識である。これは、キリスト者としてのドストエフスキーがアリョーシャに語らせている言葉である。

キリスト者はキリストに倣おうとして、従い得ないときに罪意識を突き付けられるのではないだろうか。キリストから私たちが与えられた戒めは「主なるあなたの神を愛せよ」であり、「自分を愛するようにあなたの隣り人を愛せよ」である。

私はここで二人のキリスト者を思い浮かべる。アウシュヴィッツユダヤ人の身代わりを申し出た神父と、ヒトラー暗殺に加わったボンヘッファーである。

キリストに倣うという点から見れば、明らかにボンヘッファーは間違った道を行ったと私には思える。イエスは誰も殺していないし、殺そうともしなかったからである。

アウシュヴィッツで身代わりを申し出た神父は、自分が処刑される代わりにユダヤ人の居場所を確保しようとしたと言える。キリストに倣った末のこの行為は、「ツィム・ツム」的と言えるのではないだろうか。

しかしこのイエスの教えを倫理や道徳的規範、律法や掟として捉えるだけであれば、「ツィム・ツム」的行為へと一歩踏み出すことは不可能だろう。パウロがキリストと出会って律法主義を捨てたように、自分の罪を知ってキリストの掛け替えのなさに気づき、キリストに倣う者と替えられるのでなければ、「ツィム・ツム」的行為へと踏み出すことは出来ない。

 

したがってバルトにとって、聖書は、固定された規範という意味で典型(鏡)を提供するのではなく、神の恵みの呼びかけと人間の信仰の応答との間に展開される歴史(出来事)の記録なのである。しかし神の呼びかけに応答した人間の生き方を分析してみると、キリストが示した典型にしたがって生きていることが判明するのである。(大島末男=著『カール=バルト』より)

 

さて、フェミニスト達とレヴィナスの違いへともう一度戻ろうと思う。

ダニエル書には以下のような御言葉が記されている。

憐れみと赦しは主である神のもの。わたしたちは神に背きました。(ダニエル書9:9)

この言葉から解るのは、罪というのは、神への背きだということである。人と人との間で、どちらがより罪を抱えているかではなく、「神に対して私たちは皆同じように罪を抱えている」ということなのだ。だから先ず、無神論的実存ではこの捉え方は出来ないということが言える。

内田氏が指摘したように、絶対他者としての神を想定しないフェミニストにおいては、人と人との間でしか「罪」を捉えられないということになる。よって、フェミニズムの理論からは「私はあなたより多くの責務があり、あなたは私より多くの権利がある」という言葉は導き出せないのである。

 

では、レヴィナスはどうだったか?
イスラエルとは、アブラハム、イサク、ヤコブの神が召し出された民である。「選ばれた者」という自覚の方が「罪」の自覚より先立つのではないだろうか?また、ユダヤ民族の救いの原体験は出エジプトにあるだろう。「罪の自覚」よりは「神による救いの体験」が先にあると言えるのではないだろうか?

では、ユダヤ民族はどこで罪を自覚しただろうか?
罪の自覚はバビロン捕囚の中で起こったと考えられる。多くの預言者が立てられて「神に立ち返らなければ、国が滅びる」と聴かされていたにもかかわらず、神の御言葉に聴かなかった。そこから「わたしたちは神に背きました」(ダニエル書9:9)との告白へと至るのだ。

 

私たちキリスト教徒が罪を理解するのは、やはりアダムの堕罪からだろうと思う。けれど、アダムが罪に堕ちた事実を自分のこととして捉えることが出来なければ、罪を自分のこととして自覚することは出来ないだろう。そこではやはり、「キリスト教徒であっても、神が一人一人に臨まれるのでなければ、罪の自覚は起こり得ない」と考えられる。バルトが考えたような、「神の呼びかけに応答した」「キリストが示した典型にしたがって生きている」人間は顕れないと言える。

そしてそれは、レヴィナスが求めているような「『私が有責者です』と人に先んじて名乗りをあげる」人間は顕れない、というところへと繫がっていくと思われる。

 

最後にもう一箇所、『レヴィナスと愛の現象学』の最後の頁から引用しよう。

 この節の冒頭で、私たちはレヴィナスの一節を引いたが、レヴィナスがエロス論において語ろうとしていたことはたぶんこの一節にすでに尽くされている。

 

    人間とは何か。それは一個の存在者であるためには一でありつつ二であるということである。実在のただ中にあって分断され、引き裂かれてあること。より端的に言えば、意識をもつこと、自由であることである。

 

 正義と慈愛、「語ること」と「語られること」、全体性と無限、超越と内在、男性と女性・・・・・・人間性の条件とは、まさしく「一でありつつ二である」こと、引き裂かれていることによって、知性と自由を確保する困難な選択のうちに存するのである。(内田樹=『レヴィナスと愛の現象学』(文春文庫)より)

「絶対的な一つのもの(つまり私の中では神ということだが、)を加えると、全く相容れなかったものたちが0という無限の存在によって抱き留められる」と、私は「『博士の愛した数式』とティリッヒ神学 - 風の匂いの中に」でも書いたのだが、神がおられるなら、人間は「一でありつつ二である」、「実在のただ中にあって分断され、引き裂かれてある」者とはなり得ない。

神(キリスト)が伴っていて下さるなら、二つに引き裂かれた状態ではなく、三から一へと統合され、完成へと導かれていく。

神に似せて造られた私たちは、神に立ち返り、「三でありつつ一であり、一でありつつ三である」方の豊かさの中へと参入して生きることが許されているのである。

 

最後に、ここで私が書いたものは、長い年月内田樹氏が理解しようと努めてこられた〈レヴィナス〉についてであるということを記しておきます。レヴィナスについて私自身は何一つ知りません。

けれどこの本、『レヴィナスと愛の現象学』、そして『他者と死者 ラカンによるレヴィナス』は非常に面白く読むことが出来た。私自身の論理的思考の鍛錬となった。また、これによって「信じるとはどういうことであるか」ということの再確認が出来た。

しかし、この本によって「神に出会うことはなかった」、と言える。

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