風と、光と・・・

すべての人を照らすまことの光があって、世にきた。(ヨハネによる福音書1:9)

見ること、知ること、殺すこと、愛すること

もう一人の重い分裂病の患者さんは、ある日私のところへきて自分のベッドの位置を窓側に移して欲しいと切に願ってきました。その訳を聞きますと、自分の視線が他の人にとどくとその人を傷つけ殺してしまうからだというのです。そうなるのはいやだし、怖いから、ベッドを窓側にしてもらって、視線を外に向けるようにして寝ていたい、そうすれば同室の人を視線で傷つけて殺すことは避けられるから、と。(赤星進=著『心の病気と福音 上』(ヨルダン社)より抜粋)

 目は威圧力がありますから、患者さんになるべく正面から向かっていかない。サリヴァン先生も目をつぶって面接をしたそうですけどね。声に注意を払って、ほとんどの時間、目をつぶっていたといいます。私もサリヴァンに言われたからでなくて、いつの間にか目をつぶっていることがけっこうありました。
 もちろん、対決的に顔の正面に目を向けるのがよいこともありますが、そういうときは、やんわりと鼻の根もとか、少し下を見るのがよいと思います。(中井久夫=著『こんなとき私はどうしてきたか』(医学書院)より抜粋)


この感覚は非常に良く分かる。昔から私も人の目を見るのが苦手だった。「人の話を聞くときは相手の目をまっすぐ見なくてはいけない、それがマナーだ」等と言う人間は何にも分かっちゃいないと思ったものだ。私は礼拝の説教も目を瞑って聴く。牧師によっては「それは失礼だ」と言う人もいるようである。しかし、目を開けていると必要のない情報も入って来て、聴くことに集中できないのだ。
こういった場合、見えすぎるという恐怖を抱えているのである。見ることによって知らず知らずのうちに相手を裁いてしまうという恐怖を。そして目は、相手に「見ている」ということを伝えるのである。


『キリストとイエス』(講談社の中の「イエスの思想」「愛(対人性)」についての考察の中で八木誠一氏は、愛するとは「今、ここで出会っている、この人への集中である」と語っている。目の前の人間への集中。自分の目の前にいる人間を知ろうとする行為、それが愛するということだ、と言えるように思う。知るためには見なければならない、と思う。
しかし、律法学者やパリサイ人が姦淫の場でつかまえられた女を引っ張って来た時、イエスは身をかがめて地面に何か書く体勢をとった。

すると、律法学者たちやパリサイ人たちが、姦淫をしている時につかまえられた女をひっぱってきて、中に立たせた上、イエスに言った、「先生、この女は姦淫の場でつかまえられました。モーセは律法の中で、こういう女を石で打ち殺せと命じましたが、あなたはどう思いますか」。彼らがそう言ったのは、イエスをためして、訴える口実を得るためであった。しかし、イエスは身をかがめて、指で地面に何か書いておられた。彼らが問い続けるので、イエスは身を起して彼らに言われた、「あなたがたの中で罪のない者が、まずこの女に石を投げつけるがよい」。そしてまた身をかがめて、地面に物を書きつづけられた。これを聞くと、彼らは年寄から始めて、ひとりびとり出て行き、ついに、イエスだけになり、女は中にいたまま残された。そこでイエスは身を起して女に言われた、「女よ、みんなはどこにいるか。あなたを罰する者はなかったのか」。女は言った、「主よ、だれもございません」。イエスは言われた、「わたしもあなたを罰しない。お帰りなさい。今後はもう罪を犯さないように」。(ヨハネ福音書8:3~11)

ここには、イエスの人に対するあり方、すなわち愛し方が象徴的に記されていると思われる。神であるイエス・キリストはこの女の全てをすでに知っておられたのだ。だからこそ、身をかがめて地面に何か書く体勢をとられたのだ。ここで女が、人であるイエスによって見られていたならば、自分の全てを見通されて、いたたまれない状態に陥ったであろう。姦淫の罪で引っ張られてきた女なのである。


5月2日の記事「妻とは、死に向かって夫の背中を押す者、新生へと向かわせる者」で私は、老齢の牧師から送られてきた「牧会書簡」によって「ヘブル語で「知る(ヤーダー)」という意味の言葉が、「殺す」、「交わり犯す」という意味をも含んでいる」ということを知った、と書いた。
これはつまり、「知る」とは、自分の全存在をかけて目の前の人間に関わるということであり、「知られる」ということは、自分の全てを見通されているということである。それは相手によって牛耳られるということであり、場合によっては死に繫がると言える。

神によって知られるということは、神に屈伏して生きるということと等しい。信仰とはそういうものだと言える。神に知られ、神に屈伏して、神のものとして新しく生きるのである。
神の審きは、そこから救いを生じさせる。


神でない私は、人を見ずして目の前の人間を知ろうとする者になりたい、と切に願う。

背を向けて目をそらせゐて存在の全てをもって愛さし出して
        「女を裁け!」といきり立つ人々とは対照的にイエスの周りは静けさに満ちていた