風と、光と・・・

すべての人を照らすまことの光があって、世にきた。(ヨハネによる福音書1:9)

「恐れ」と「畏れ」と、『海と毒薬』の罪意識の欠如

私に洗礼を授けた牧師には二人の娘がいた。上のほうの人は、私より4歳くらい年長で、すでに看護師として働いておられた。
礼拝後の青年会で、テキストを読んだ感想だったか何かを聞かれ「神様はおそろしい方だと思った」と言った私に向かって、その方は、「おそろしい」っていうのは「恐怖」の意味か「畏怖」の意味か、と訊かれたのだった。そのように厳密に考えて口にした言葉ではなかったので答えることもできなかったと思うが、「あぁ、そういう(「畏怖」)おそろしいもあったのか」と心の中で思ったように記憶している。その方は、すかさず、畏怖の意味の「畏れ」は信仰にとってなくてはならない感覚だ、というようなことを言われたのだった。その方のその言葉が、私に、そういった目で神を捉えさせる契機となった。

私たちは、人間の延長線上に神を見てしまう。人間の延長として、「素晴らしい人、尊敬できる人」として神を、イエス・キリストを見る。それでは、偶像崇拝と何ら変わりのないものとなる。


彼らは自ら知者と称しながら、愚かになり、不朽の神の栄光を変えて、朽ちる人間や鳥や獣や這うものの像に似せたのである。(ローマ人への手紙1:22~23)


私たちは、人をかばって神の前に立ちはだかる場合がある。庇い立ては、人を神から遠ざける行為だと肝に銘じなければならない。厳しい認識へと向かわせるものだとしても、神の前へと人を押し出さなければならない。


遠藤周作は神を希求した人かも知れないが、キリストには出会わなかっただろう、と私は思う。キリストという方は陰府にまで降り宣教されたというから、死んだ後の事は知らない。しかし、生きている間は遠藤はキリストに出会わなかったろうと思う。自分の頭の中で神を作り上げてしまえば、真の神に出会うことは出来ない。しかし・・。

佐古純一郎氏『海と毒薬』について以下のように書いておられる。

   おれには良心がないのだろうか。おれだけではなく、ほかの連中もみな、このような自分の犯した行為に無感動なのだろうか。


 さきにも述べたように、それはむしろ、カトリック・遠藤氏の内面からのつぶやきなのである。聖書が福音として人に迫るのは、罪の赦しの恩寵としてだということを、私たちキリスト者は教理として十分になっとくしている。しかしそういうキリスト者として、日本人でもある私たちは、はたしてどこまで十字架の赦しを恩寵として受けとりうるような深い罪責感に苦しんだことがあるだろうか。問題は「日本人は、だいたいにおいて・・・」というような他人ごとではないだろう。キリスト者である私たちが、罪の赦しを説きながら、じつは自己の内面にどこまで罪の苦しみを体験しているか、ということなのである。(佐古純一郎=著『キリスト教と文学』(新教新書)より抜粋引用)

私自身は、「日本人は・・」というような括りで物事を捉えることは好きじゃない。そういった括りで逆に日本人の美徳を上げて悦に入るなど、醜悪だとすら思う人間なのだ。
罪の自覚も、日本人だけが自覚出来ないのではないだろう。全ての人間がここに立っている、と思うだけなのだ。
けれど、この佐古純一郎氏の書かれた物を読んで、遠藤自身が罪意識の欠如に苦しんだ人だったということを再確認することが出来た、と思う。