風と、光と・・・

すべての人を照らすまことの光があって、世にきた。(ヨハネによる福音書1:9)

用いられるということ、罪を突き付けられるということ

かつて、祈り会での牧師の説教を、歯ぎしりをする思いで聴いたことがある。

その時私は、「お前も罪を抱えた者だ」ということを突き付けられたのだと思う。

語った牧師はそんなことは思いもしなかっただろう。聴いた説教の内容も覚えてはいない。

説教とは神の業であって、人間には成し得ない行為だとバルトは語っているようだ(ここはちょっと曖昧だ)が・・。

神が、その説教を用いて、私に罪を突き付けたのだ。

だから私は、教会を離れなかった。あの時が、私の信仰の転換点だった、と思う。

あの時、私は、「罪を知って、キリストの掛け替えの無さに気づき」、救いへと入れられたのだ。

罪を受け入れた先に拡がっているのは、自由のよろこびである。

 

憐れみと赦しは主である神のもの。わたしたちは神に背きました。(ダニエル書9:9)