風と、光と・・・

すべての人を照らすまことの光があって、世にきた。(ヨハネによる福音書1:9)

自意識についての二つの文章から考えた


● 最近の対話:象徴秩序への位置づけと自意識、統計学超自我、写真と説明とか 「スメルズグッド・ホニュールイズ」
 しかし自意識と象徴秩序への位置づけはイコールではないし、前者は後者の後の問題ではないかとも思う。後者はほとんど「わたし」の存立の問題であり、言葉とモノの関係の次元に位置している。前者はそうしたイマジネールな「わたし」が一応同定されて、その上で「内面」がドライブするだけのこと。問題系としては矮小である。(抜粋引用)


● 八月の蟻がどんなに強そうに見えるとしてもそれは光だ 兵庫ユカ
〈わたしが過剰な自意識と折り合えるのは、歌を詠んでいるときだけなのかもしれません〉と作者自身が歌集『七月の心臓』のあとがきで告白する自意識のつよさは、兵庫ユカの歌を読んでいるかぎりまったく否定できない。…。自分を凝視する視線を頻繁に感じる。しかし、それがありふりれたナルシシズムと手を結ばないのは、眼球をぐるりと内側に向けて自分の内面を掘っていくような表現ではなく、眼球は外側に向けたまま、つねに自分の反射を見つめているようだからだと思う。
(平岡直子=文『一首鑑賞 日々のクオリア』より抜粋引用)

「スメルズグッド・ホニュールイズ」さんの上の文章を拝見して面白いな、と思った。特に、「象徴秩序への位置づけ」「「わたし」の存立の問題であり」という点。これは、「全くその通りだ!」と思った。

私は、いくつかの書物から、統合失調症の場合は、この「わたし」の存立に関わった問題を抱えているのだと思っている。つまり、「自分とは何か?」という問いの時点で蹲っているということ。その意味で、「前者(自意識)はそうしたイマジネールな「わたし」が一応同定されて」という点にも肯ける。「一応同定されて」「一応」という言葉が重要だろうと思う。

だが、象徴秩序に向けて自己が同定されたなら自意識が過剰になるのかというと、そうではない、と思える。
象徴秩序なるものに自己が同定されたなら、自分よりも象徴秩序の方に目が向くのではないだろうか?「自意識」、特に「自意識過剰」と言われる時の「自意識」は、「象徴秩序」よりも自分へと意識が向かっている状態だと思うから、自分以外のものは目に入っていないといえるように思う。

ここで「一応」の「同定」であるということが意味を持ってくるように思われる。
「一応の」というのは、「仮に」ということに等しい。「仮に」とは、本物ではない、紛い物である可能性もあるということだ。
統合失調の場合は、おそらく「紛い物」では済まないのである。
紛い物の象徴秩序で済む人は、「一応」同定されて、同定された象徴秩序の方は見ないで、自分自身に拘泥する。そのために自意識過剰となるのだろう。


そんなことを考えているところへ、平岡直子さん「一首鑑賞」の文章を拝見した。
ここに記された「自意識」は、「眼球を外側に向けたまま、自分の反射を見つめているような」自意識だと言う。面白いなぁ、と思った。そしてこれこそが、象徴秩序へ向けてしっかりと位置づけされた者の「自意識」ではないだろうか、と思った。


私はここで、「象徴秩序」を「神」と置き換えて考えてみようと思う。

神の前に一応身を置いているというキリスト教徒は思いのほか多いのではないだろうか。そういう人は、神の方ではなく、自分の内側を見ていることの方が多いのではないかと思う。これは、平岡氏が言う「自分を凝視する視線」とは違っている。
平岡氏が言う「眼球は外側に向けたまま、つねに自分の反射を見つめているよう」「自分を凝視する視線」というのは、キリスト教徒で言うなら、眼球を外側に向けて人を見ながら人の中に自分の罪の姿を凝視しているということだと言える。これは、神の前に、一応でなく、罪を抱えた自己を同定した者の姿だろう。

しかし私たちは、罪を抱えた自己を神の前に位置づけたとしても絶望することはない。
なぜなら、この神は、私たちを神に似せて愛する者としてお造りになった神であり、その回復のために、御子イエス・キリストを私たちにお与え下さる神だからである。

生きているものは、少なくとも知っている 自分はやがて死ぬ、ということを。(コヘレトの言葉9:5)

憐れみと赦しは主である神のもの。わたしたちは神に背きました。(ダニエル書9:9)
お前たちの罪によってお前たちは売り渡され・・(イザヤ書50:1)
あなたを造られた主はいまこう言われる、「恐れるな、わたしはあなたをあがなった。(イザヤ書43:1)

今や、キリスト・イエスに結ばれている者は、罪に定められることはありません。キリスト・イエスによって命をもたらす霊の法則が、罪と死との法則からあなたを解放したからです。(ローマの信徒への手紙8:1,2)