風と、光と・・・

すべての人を照らすまことの光があって、世にきた。(ヨハネによる福音書1:9)

片野安久利説教集『深い慰め』(マタイによる福音書5章1節〜10節)より


 セシウムの消滅日までアドベント
 祈るより泣くのがいいと褞袍着る
 いらくさ

● 『大津地裁の決定』と0311再稼働反対!首相官邸前抗議
今週 大津地裁が高浜3,4号機の再稼働を差し止めた決定は、正直(笑)意外ではありましたが、内容は非常に良かったと思います高浜原発、「運転差し止め仮処分」の重い意味 | 原発再稼働の是非 | 東洋経済オンライン | 経済ニュースの新基準(←このサイトにはリンク先からお入り下さい)
それは、避難計画を論点に取り上げていることです。
(中略)
と、いうことで今週も官邸前抗議、いや国会前抗議へ。今日は311から5年ということで拡大版です。いつもの官邸前抗議に加えて、国会正門前では大勢のゲストを迎えての集会が行われました。昼過ぎまで雨が降り、夜の冷え込みにもかかわらず、参加者は6000人。ヘリの空撮も出ていました。

木曜の午後、ばったりかつての職場の先輩に出会って、「明日は関電前に行く予定」と伺った。行かれたかな?お天気も悪くなかったから良かった。私は木曜の午前中に行ったのと、ちょっとこのところの疲れが出ていたので行かなかったのだけど・・。5年だなぁ、と思う。


片野安久利説教集『深い慰め』(星雲社/創栄出版)

マタイによる福音書5章1節〜10節からの説教(2012年3月4日)より抜粋引用。

 憐れみ深い人、というのはどうでしょうか。これは多分、本当にこの人はかわいそうだ。何とか助けてあげなければならない。そう思いながらも、自分が無力で、ただ一緒に泣くほかないような人たちのことを言っているのでありましょう。もちろん、自分にある程度力があって、その人を助けてあげるという人たちも、憐れみ深い人たちではありますけれども、むしろ、そんなに深い同情心を持ちながら、何もしてあげられない、そういう自分の申し訳なさというものを感じている人たちのことではないでしょうか。

(中略)

 わたしたちが聖書全体を読んでみて、神様が最初にお語りになった言葉、人間の耳に聞こえてきた言葉は何であったか。アダムが最初に聞いた言葉は、何でしょう。「とても良いものができた」とそういう言葉です。…。わたしは喜びに堪えない、とおっしゃったのです。もちろん人間だけではありません。鳥も動物も、魚も木も、太陽も、昼も夜も、すべてのものをご覧になって、「はなはだ良い」とおっしゃったというのです。「これはうれしい」これが神様のお語りになった最初の言葉で、アダムが聞いたのであります。
 人間が神様から聞くことのできる最初の言葉は、そうなのです。「うれしいね」という神様の言葉をわたしたちは聞くのであります。聖書の神様が、わたしたちに、お造りになったすべてのものに向かってそうおっしゃる。神様の第一声であります。だから新約聖書でも、イエス・キリストがお語りになる最初の言葉は、「幸いなるかな」です。よく来た、さあお入りなさい。これがキリストの最初の言葉であります。…。
 そこからすべては始まる。すべてはそこに終わるのです。みなさん覚えているでしょうか。あの黙示録の一番最後の方、14章の13節でしたか、「幸いなるかな、今から主にあって死ぬ死人は」そういう言葉です。日本では幸いなるかな、は後についていますけれども、幸いなるかな、は最初です。権力の犠牲になって、キリストのために殺されていく人々、すべてのものを奪われて、命まで奪われてしまう人々、そしてその人の家族、その人の友人、その人たちの悲しみはどれほどか。ところがあのときに、「幸いなるかな、今から後、主にあって死ぬ死人は幸いである」。そういう言葉が、新約聖書の一番最後の方に聞こえてくるのであります。
 それを、わたしたちが、思い出すときに、実は聖書全体は、この世界全体に何が起ころうとも、神様のそういう祝福と喜びの中におかれているということであります。それをゼロにすることはできません。それを引き裂くことはできません。それをなかったことにすることはできないのであります。人間何をしたとしても、どんな悪事を働いたとしても、神様のそのような祝福を引き裂いたり、なかったことにすることはできない。聖書がわたしたちに告げていることはそういうことでしょう。だから今、悲しみの中にありながら、あるいは今飢えている、不正に苦しんでいる、慰めがどこからも来ない、人々の不和の中に自分が置かれて何もできない、あの苦しんでいる人に対して、自分はただ泣くことしかできない。そういう人々を前にして、イエス・キリストは、何か他人事のように、「彼らは」とおっしゃっているように聞こえます。
 でもその人たちはどうでしょう。彼らは、という言葉を聞きながら、あなたは、あなたがたはと、そういうふうに聞こえているのではないでしょうか。第三者のことを語っているように聞こえますけれども、それが自分に当てはまる人にとっては、まさに、あなたは、というふうに聞こえるのであります。ですから、もしルカによる福音書の同じような箇所を読むと、そこはみな、あなたは幸いです、「あなたは」という言葉になっています。飢えている人、貧しい人、あなたは幸いだと、そう、あちらでは言っているのであります。ここは「彼ら」です。彼らとあなたがたは紙一重であります。彼らの一人が、それを自分のこととして受け止めることができるような場合には、それは、「あなたは」、という声となって自分に響いてきます。
 聖書のありがたさは、いつも第三者に向かって言っていることではない。二人称で、あなたは、とあなたがたは、とそういうふうに呼びかけられている。ですから、キリストの声がわたしに届く。神様の声がわたしに聞こえてくる。そのようにして、神様とわたしたち、わたしの間には、抜き差しならない、深い結びつきがそこで生まれてくるのです。だから神様は言うのです。あなたを…救い出したわたしだけがあなたの神でしょう。あなたにはほかに神はないでしょう。さあ、わたしと一緒に行きましょう。わたしだけがあなたの神です。ほかの神がいるわけはありません。
 それが十戒の構造です。神様との深い交わりの内に、わたしたちをとどめ置こうとする。その中でわたしたちを育て、成長させようとする、その言葉が十戒なのです。神様の救いは、あの十の戒めの中にもずっと貫かれているのです。…。救い出した神様が、こういうあなたがたをつくりあげていくのです。それはわたしの意志です。わたしはそれをやり遂げます。それはわたしの作業です。あなたがたもわたしと一緒に、わたしに力を合わせてそうしなさい。わたしよりほかに神はないでしょう。そういうふうに言ってくださる戒めです。
 これもそうです。みなさん、「この幸いなるかな」という言葉があって、その次に出てくるのは、自分が自分をなんとかするというのではありません。心の貧しい人は幸いだ。天国はその人たちのものだ、というのです。天国は自分が勝ち取るのではありません。天国はお前のものだ。あなたに与えられている、と断言されるのです。悲しんでいる人たちがどうして幸いなのか。神様は必ずお前を慰めるからだということです。慰められるという、受身形に書いてありますけれども、本来は慰めるということです。
 みなそうです。神様の子供に、あなたはされるのです。あの一番最後でも、義のために苦しめられている人は幸いです。あなたが義を打ち立てるのではありません。あなたが勝利を勝ち取るのではありません。天国はあなたのものです、と言ってこちら側のいっさいの努力なしで、神様がなさる。神様がお与えになる。だから幸いだ、という構造をわたしたちはしっかりと、心に刻み付けておかなければなりません。
 そういう中で、わたしたちはあとから聞くように、様々な声を聞きます。あなたの光を輝かせなさい。あなたの良い行いを見て、人々が神様を崇めるようにしなさい。人々があなたがたを憎んだからと言って、憎むことはないでしょう。そういう戒めがいっぱい出てきます。それは神様がイエス・キリストと共に、聖霊のお力をもって、そういう人間を、この世界の中に造り上げようとしていらっしゃるのです。
 それは救いの一部です。罪が許されるとともに、そういう神様がお望みになる人間が、そこに形づくられていくのであります。しかしわたしたちは泥ではありません。木ではありません。意志を持っている人間です。ですから、神様は、キリストはわたしたちに命令するのです。もしわたしたちが答える、そういう心を持たないで、石や、あるいは木や泥であったら、そういうふうにはおっしゃらないでしょう。石や木に向かってお語りになるのでなくて、心を持つ人間に向かっておっしゃる。わたしたちから、そのような答えを神様は期待していらっしゃる。わたしが働くその働きの中で、「あなたも、さあ、やってごらん。力をつくしてやってごらんなさい。わたしが助けてあげるから」。そういう中で、わたしたちが形づくられていくのであります。
 これは旧約聖書でも、新約聖書でも、全く変わりがありません。そういう神様の手の中にわたしたちがいて、わたしたちが喜んで、神様の御意志に一致しようとして努力する。それがわたしたちの生活というものであります。それではお祈りをしましょう。
              (片野安久利説教集『深い慰め』(星雲社/創栄出版)より抜粋引用)

この説教では、東日本大震災についてはふれられていない。けれどこの説教は、1931年生まれの牧師が、あの大震災の後に福島で語った説教なのである。


家の一年検診があるので、来週は家中のお掃除に専念して、ブログ更新は週末のみにする予定です(ミルトス)