風と、光と・・・

すべての人を照らすまことの光があって、世にきた。(ヨハネによる福音書1:9)

讃美歌320番「主よみもとに近づかん」ー逝去者記念の讃美歌紹介に長老が選ばれた讃美歌

以下は、長老に書いていただいた逝去者記念の讃美歌紹介の抜粋である。

この紹介文は、「逝去者記念礼拝は教会の先輩達、父母、兄弟姉妹達、子供や孫達、友人達、懐かしい人達に思いを馳せる時だと思いますが、真先に思うべきは、私たちの為に死んで下さった主イエスを思うべきかと考えます」で始まっている。そして最後は、福音を語る説教となっている。
これからの長老は御言葉を語ることのできる人を選ばなければならないと思う。牧師が足りなくなって無牧師の時代が来るだろうから。この讃美歌紹介を書かれた長老は長く日曜学校の校長をしてこられた方だ。

最近、新たに執事となった一人の婦人が日曜学校の教師になられて意欲的に取り組んでいると聞いた時、この婦人が長老に選ばれて御言葉を語っている姿が幻に見えた。
「その後 わたしはすべての人にわが霊を注ぐ。あなたたちの息子や娘は預言し 老人は夢を見、若者は幻を見る。」(ヨエル書3:1)

日曜学校で子ども達に聖書を語るという体験は、大きな力になる、と思う。自ら聖書に向き合って神の言葉を聴き取るのである。礼拝で説教を聴いているだけでは得られない力を蓄える訓練の場となる。

しかしまた、御言葉の前に深く静まって聴き取るのでなければ、たとえ長年日曜学校の教師をしていても、独り善がりで的外れなものとなるだろう。

人と人との間を執り成すにしても、キリストが命を懸けられたということを深く分かっていなければ、小手先だけの、口先だけの執り成しに終始して本物の執り成しとは成り得ない。

語るにしても仕えるにしても、御言葉の前に深く静まって神の言葉を聴き取らなければならない。全てはそこから始まる。

教会員向けに出しているこの通信の名は、『聴く』である。
「信仰は聞くことにより、しかも、キリストの言葉を聞くことによって始まるのです」(ローマの信徒への手紙10:17)