風と、光と・・・

すべての人を照らすまことの光があって、世にきた。(ヨハネによる福音書1:9)

御言葉の前に深く静まるとは?

御言葉の前に深く静まって神の言葉を聴き取る。

御言葉の前に深く静まるとは、どういうことだろう?

戒めや律法というのは、罪を抱える人間が間違いを犯さないようにと神が与えて下さった恵みの賜物だと言える。

モーセは若き日に、苦役にかられる同胞を憐れんで、エジプト人を殺してしまう。後年、主は、そのモーセに「殺してはならない」との戒めを託される。
この時の「殺してはならない」は「同胞を」という限定付だから、モーセエジプト人を殺したのは罪には問われない、と言う者もいるだろう。しかし、キリストが、この「殺してはならない」を全ての人間に適用された(マタイ福音書5:17~48)からには、私たちキリスト教徒はモーセエジプト人を殺したことを「罪」として解釈し、受け入れなくてはならない。

出エジプトのために80歳のモーセを主はお用いになられた。しかし、モーセが自分の力で同胞を助けようとした時には、人を殺すことになったのである。良かれと思ってやることで、私たちは、人を死へと追いやることがある、ということだ。

人が見て自ら正しいとする道でも、その終りはついに死に至る道となるものがある。(箴言14:12)
最近、小会長老を退かれた長老と私との間で、ちょっとした行き違いがあった。後日、その長老は、「ひとりよがりな考えで失礼しました」と謝って下さった。私も、「お電話を最後まで聞かないで早とちりしてしまって、すみませんでした」と伝えたのだが、自分の間違いに気づかなければ謝ることも出来ないだろう。

御言葉の前に深く静まるというのは、自分の罪と向き合うということ、だと思う。
そして神の言葉を聴き取るというのは、その私の罪を赦すために、キリストが与えられ、十字架上に死なれたということ、それによって、私が神の前に執り成されたということ、そのことを聴き取るということに他ならない、と思う。


「姦淫するな、殺すな、盗むな、むさぼるな」など、そのほかに、どんな戒めがあっても、結局「自分を愛するようにあなたの隣り人を愛せよ」というこの言葉に帰する。愛は隣り人に害を加えることはない。だから、愛は律法を完成するものである。(ローマ人への手紙13:9~10)


 「ナラティヴ」とは、「物語」「語り」を意味する言葉だという。「言葉」、「物語」、「語り」についての考察が興味深い。「言葉は世界をつくり、状態を識別する」という。私たちは「言葉をたよりに現実を認識し、自分の生きる世界を構成している」というのだ。そして、自己とは「自己語り」によって作り直されていくのだという。しかし、自己を語る時、この語りを確かに聞き届けてくれる存在が必要なのだ。

 この本では、カウンセリングの臨床現場での3つのナラティヴ・アプローチが紹介されている。(中略)

 祈りの場には、この本で紹介されている3つのアプローチの要素が全て備わっていると思う。

 (中略)又、祈り会では、特別な一人の人間だけが祈るということはない。交代で一人一人が神に向かって祈る。これは、神に向かって一人一人が自己を語るということと等しいのではないだろうか。神に向かって「自己語り」をしながら、私たちは罪を抱えた自己を認識する。そして、さらに、罪を抱えているにも関わらず神によって愛されている自己を、祈りの度ごとに、新たに認識し直していくのである。

 キリスト教会の祈り会では、一人の祈りが終わるごとに皆が「アーメン」を唱和する。(中略)互いの祈りの言葉を最後まで聞き届け「アーメン」を贈り合うわけだが、この祈りの群れの中にいるのは人だけではなく、神がその中心に臨在し給い、一人一人の祈り([語り])を完全に聞き届けていて下さる。
 「もしあなたがたのうちのふたりが、どんな願い事についても地上で心を合わせるなら、天にいますわたしの父はそれをかなえて下さるであろう。ふたりまたは三人が、わたしの名によって集まっている所には、わたしもその中にいるのである」(マタイによる福音書18:19,20)

 最後に、「語り」のない場について考えたいと思う。鬱病が重くなっていく時、語ることすら出来なくなるという。また、まだ大人と等しい言葉を持たない乳幼児の場合はどうだろうか。「語り」のないところでは、ナラティヴ・アプローチの可能性が断たれているかのように思われる。しかし、「傍らに居ること」、その中にナラティヴへの可能性が開かれているということを本書の引用から示して、終わりたいと思う。
 ラップ人は、・・。彼らの伝統では、ある家族に突然不幸が訪れ誰かが亡くなったりすると、その親戚一同がやって来て、何を言うともなくそこにただ一緒にすわっている。・・。悩みをもつ人の呼吸を肌で感じ、その無言の言葉を聞きとる作業こそ、われわれ臨床家のできる最大の貢献ではないだろうか」

野口裕二=著『物語としてのケア ナラティヴ・アプローチの世界へ』(医学書院)の紹介文より)