風と、光と・・・

すべての人を照らすまことの光があって、世にきた。(ヨハネによる福音書1:9)

絶望から、自己を真に規定する方の元へと立ち返る

「椎名麟三は、共に生きているものによって人は自己を規定されている、ということをエッセイの中で繰り返し書いている」と、私は書いた。椎名麟三という人は、自己を真に規定するものを探し求めて神に行き着いた人だと思うが、キルケゴールの『死にいたる病』という書物が自己を真に規定するものについて書いたものであるということを、佐古純一郎氏が書いた物を読んで知った。

以下、引用。

 キルケゴールが『死にいたる病』のなかで、強調したような「自己」を、現代人はどこかで失ってしまっているのではあるまいか。「自己をはかる尺度は、つねに自己が何に対して自己であるかというところにある」とキルケゴールはいう。そうしてさらに「自己は自己をはかる尺度にしたがってその度が強くなる」ともいう。いま私たちは、何を尺度として自己をはかっているだろうか。いや、尺度というようなものは、もうとっくの昔にどこかに捨ててしまったのかもしれない。そうして、いま私たちは、絶望して自己自身であろうと欲しないか、あるいはまた、絶望して自己自身であろうと欲するか、さまざまな絶望で自己を飾りたてているのだが、しかもそこには、キルケゴールがいったような意味における、本来的な意味での絶望すらもはや見出されないのかもしれない。
 …キルケゴールはそこで、何を私たちに訴えようとしたのだろうか。「自己が自己自身に関係しながら、自己自身であろうと欲するときに、自己はこの自己を置いた力のうちに、はっきりと自己自身の根拠を見いだす」とそう訴えたのである。…。たしかに、いま私たちは、ここが私のついのすみかと、いえるような究極の依処を失っているのではないか。キルケゴールにとって、そのことが、人の罪ということにほかならなかった。
 いうまでもなく、キルケゴールにとって…。それゆえに、罪とは「人間が神の前に絶望して彼自身であろうと欲しないこと、もしくは神の前に絶望して彼自身であろうと欲すること」にほかならなかった。私は、そのことを、やはり、私たちが、究極の依処にしっかりと自己を見出していないことが、私たちの罪であり、もろもろの悪はそこからのみ生じてくるのだ、と考えたい。
 絶望とは、完全に究極の依処から離れ去ってしまうことであるゆえに、絶望は罪であり、それは死にいたる罪である。そのような罪が現代人の深刻な病ではあるまいか。…。

  彼が現世的なものに絶望しているのは、永遠的なものを失っているがためである。そのかぎりにおいて彼は絶望している。けれども直接的な人間は、自分の絶望がそういうわけのものであるとは、夢にも思いいたらない。しかし絶望についての真の観念をもっている者には、彼が絶望するにもおよばないものに絶望しているその態度からして、彼がほんとうに本質的に絶望しているのだということがわかるのである。(佐古純一郎=著『キリスト教と文学』(新教新書)より抜粋引用)


佐古氏は、キルケゴールの『死にいたる病』の後にドストエフスキーの『悪霊』について書いている。
「反逆的な自由」を求めたキリーロフはピストル自殺する。「しかしそれはけっして弱気からの絶望ではなかった。自分が自分の主人であり、自分を支配するものは自分だけである、ということを徹底的に説明しようとすれば、自殺以外にそのてだてはない、というのがキリーロフの論理である」(『キリスト教と文学』)

この絶望は、キルケゴール「神の前に絶望して彼自身であろうと欲する」と書いた絶望に等しいだろう。佐古氏も、キルケゴール的にいえば、キリーロフの自殺は強気の絶望からといえよう」(『キリスト教と文学』)と言っている。
実際に自殺する者が全てこういった風だとは思わない。キリーロフというのは一つの典型として描かれているといえるだろう。


佐古氏は、また、椎名麟三については、「イエス・キリストにめぐりあい、イエス・キリストを受けいれることにおいて、「自由」を生きる自己を見出した」(『キリスト教と文学』「椎名麟三の『邂逅』」)と記している。
自己を真に規定するものと出会う時、私たちは、そこでこそ、真に自由を生きる者とされるのだ。

「…強姦したり、…たたきわってもいい。人間にはすべて許されている。しかしそのことをほんとうに知っている人間は、そんなことはしないだろう」
 椎名麟三はよくこの文章を使う。ドストエフスキーの『悪霊』でのキリーロフの言葉を彼流に要約したものである。「人間にはすべてが許されている」「それを真に知る」ということと「その者は何もしないだろう」という矛盾律の間に『美しい女』の〈知っているが故にそうしない男の物語〉平凡な日常性が光り輝いて横たわっている。だから「死に価する崇高な理念なぞない」とうそぶく。(文=松本鶴雄、椎名麟三=作『美しい女』「解説」より)



● クリスマス・ソングが好きだ クリスマス・ソングが好きだというのは嘘だ 佐クマサトシ
掲出歌を前に…、これはどちらも真実なのだろう、と想像している。人の思考は「クリスマス・ソングが好きだ」「クリスマス・ソングが好きだというのは嘘だ」を軽々と同時に抱えることができる。短歌はそれを抱えられない。何かものすごい矛盾が起こっているかのようにみせてしまう。だから短歌を読むのはおもしろいのだともいえる。(平岡直子=文『一首鑑賞 日々のクオリア』より抜粋引用)