風と、光と・・・

すべての人を照らすまことの光があって、世にきた。(ヨハネによる福音書1:9)

佐古純一郎氏の『アンナ・カレーニナ』

     アンナの二度の祈り
              トルストイの『アンナ・カレーニナ』
 姦通文学というような特別のジャンルが文学の世界にあるわけではないが、古代から現代にいたるまで、姦通は文学における人間探求の大きな主題であった。それは愛の問題であり、性の問題であり、さらに人間が男と女につくられていること自体にさかのぼる根本問題だからである。姦通とは何かということをこのような場所で探索するわけにはいかないが、トルストイの『アンナ・カレーニナ』はたしかに姦通という事象の核心をついていることで世界文学にたぐいまれな古典的価値を確保した作品ということができよう。「すべて幸福な家庭はたがいに似かよっているが、不幸な家庭はそれぞれに不幸の趣きを異にしているものである」という有名な書き出しの文章を思い起こすだけで、私の心の世界にアンナ・カレーニナの悲劇がよみがえってくる。トルストイは『アンナ・カレーニナ』を書くとき、副題のように「復讐は我にあり、我これを与えん」という聖書のことばをかかげた。おそらくパウロの「ローマ人への手紙」第十二章の十九節からの引照であったろう。もちろん、トルストイは勧善懲悪の道徳的目的を意図して『アンナ・カレーニナ』を書いたわけではない。しかしトルストイは単なる思いつきからパウロのことばを作品の冒頭にかかげているのではない。パウロのことばはこうである。

   「あなたがたは、できる限りすべての人と平和に過ごしなさい。愛する者たちよ。自分で復讐をしないで、むしろ、神の怒りに任せなさい。なぜなら、“主が言われる。復讐はわたしのすることである。わたし自身が報復する”と書いてあるからである。むしろ、“もしあなたの敵が飢えるなら、彼に食わせ、かわくなら、彼に飲ませなさい。そうすることによって、あなたは彼の頭に燃えさかる炭火を積むことになるのである”。悪に負けてはいけない。かえって、善をもって悪に勝ちなさい」(ローマ一二・一八ー二一)。

 「神さま、わたくしをお赦し下さいまし!」わたくしたちは作品の中で二度アンナの口からこの祈りがささげられることを見のがしてはならない。作品のクライマックスといってよいあのヴロンスキイに体を許したときと、さいごに列車の下に身を投げて自殺するときと。「アンナ、アンナ・・・」がくがくとふるえる男の声を前にして「彼女は自分を罪深いもの、道ならぬものと思いつめた。もうこの上は身を低くして、赦しを乞うよりほかはないような気がした」というそのアンナの口から赦しを乞う祈りがささげられる。そうしてさいごの自殺の瞬間のアンナを、トルストイはつぎのように描写する。

    “わたしはどこにいるのだろう? わたしは何をしているのだろう。いったいなんのために?”彼女は身を起こして、わきのほうへ飛びのこうとした。が、何かしら容赦のない大きなものが、彼女の頭をひと突きし、背中をつかんでひっぱった。“神さま、どうかなにもかも赦して下さい!”争ってもかいのないのを感じて、彼女はこう口走った。

 トルストイはアンナを裁いたろうか。もちろんそのようなバカなことはない。しかし、情事破れ去ったアンナのみじめさのなかで、彼女の罪を見のがさないきびしいものの手をトルストイははっきりと見たのである。「神さまどうかなにもかも赦して下さい!」という祈りがたしかにトルストイの耳に聴こえたのである。ただそれだけである。その祈りを、読者にも伝えるだけである。姦通は悪いことだ、そんなお説教をトルストイは読者に向かってなにひとつ投げかけてはいない。そして、わたしたちもまた、そのアンナの祈りを聴くのである。この祈りが聴こえてこない姦通小説というものは、人間の情事(いろごと)の単なる描写にすぎないのだ。そういう作家の口から、もはや性のほかに人間の主題はない、などというアフォリズムめいたセリフをきかされると、いいかげんにしてくれ、とつぶやきたくなるのである。(佐古純一郎=著『キリスト教と文学』(新教出版社)より)


若い頃から(これも佐古氏の『キリスト教と文学』からの影響だったかもしれないが)トルストイ人道主義的という印象が私にはあって興味が持てなかった。この先も『アンナ・カレーニナ』を読むことはないだろう。

しかし、『キリスト教と文学』の中でも『アンナ・カレーニナ』について書かれたこの文章は、トルストイの神への信仰を鮮やかに伝えて、心の震えるような衝撃であった。

この年齢になって佐古純一郎氏の『アンナ・カレーニナ』を読むことが出来たのは、思いもかけない人生の大きな喜びだったと思えるほどである。