風と、光と・・・

すべての人を照らすまことの光があって、世にきた。(ヨハネによる福音書1:9)

佐古純一郎氏の『罪と罰』

 キリスト教という視点から『罪と罰』を読むとき、いちばん重要な意味を持っているのはソーニャという娘である。(略)ドストエフスキーはソーニャをとおしてイエス・キリストの愛をあらわそうとしたのだという意味づけはもちろん間違いではない。たしかにソーニャはそういう人物として作品の世界に登場する。しかしそれにしても、…、ソーニャはキリストだとだけいって『罪と罰』がわかったといえるほど単純ではないのである。(佐古純一郎=著『キリスト教と文学』(新教新書)より抜粋引用)

古くなった教会の図書を処分するので欲しいものは持っていって良いということで、貰い受けた。佐古純一郎のこの本を、昔、借りて読んだのだった。椎名麟三なども佐古氏の本で知ったと思っていたのだが、私が読んだ初期の作品などは扱われていなかった。佐古氏の本は二冊あって、二冊とも中身を見たのだが、書かれている内容に全く記憶がない。けれど、『罪と罰』のこの部分を読んで、ソーニャをキリストとして描いていると知って『罪と罰』を読む気にならなかったのだろうか?と思ったのだった。

この文の最後を佐古氏は、以下のように結んでいる。

罪と罰」に深く耳を傾け「罪と罰」の世界を深くみつめる読者は、ラスコーリニコフにそそがれていたその愛のまなざしが、自分自身をも悩ましいほどの心づかいでみつめていてくれることに気づいてハッとするのである。『罪と罰』はそういう小説なのである。(佐古純一郎=著『キリスト教と文学』)

しかし、それでも私は『罪と罰』は読む気になれない。

ドストエフスキーは日本では人気の作家なのではないだろうか?もちろん世界的な作家だとは思うが、他の国ではどうなのだろう?
私は先に「日本という括りで物事を捉えるのは好きじゃない」と書いた。けれどここでは、「日本人好み」ということを考えないではおれない。
否、日本人に限らず、私たちはキリストに「赦しの神」を期待するのではないだろうか。

牧師である夫は、しばしば、「私たちの誰一人としてこんな風に神に救って欲しいと願った者はいない」と語る。神のひとり子を十字架につけて殺すことで私たちの罪が赦されるように、などと。しかも、神の民が、同じ神の民の子孫として生まれた神の子イエスを殺すことで赦されるように、などと。
神の考えは、私たちの考えを遙かに超えているのである。神と人との間には明確な一本の線が引かれているのだ。それを超えてイエス・キリストは来て下さったのだ。

しかしソーニャは、私たち人間の期待に添ったキリスト像のように思える。
そして、ラスコーリニコフが人殺しだという設定もいけない。そういったところでしか罪を描き出せないというところが、私には気に入らないのだ。読者のほとんどは人殺しはしていないだろう。「私は人殺しなどしていない」ー すると、罪の自覚のないままに赦しだけを享受することになる。そういう意味でも、やはり、ドストエフスキー作品は『罪と罰』より『カラマーゾフの兄弟』だろう、と私は思う。

そしてまた、このところでも、ガルシア・マルケスドストエフスキーを超えている、と私には思えるのである。