風と、光と・・・

すべての人を照らすまことの光があって、世にきた。(ヨハネによる福音書1:9)

罪と悪(島弘之=著『小林秀雄 悪を許す神を赦せるか』から1)(『カラマーゾフ』論)

「悪」の実在を黙認しているかのような「神」のあり方は、小林秀雄には許容し難いものだ。勿論、ミルトンの『失楽園』のように、神正論 ー 「悪」とは「神」の“正しさ”の言わば引き立て役だとする論法 ー を自明視している作品を相手にしているのならば、話は、差し当たり簡単であろう。だが、厄介なことにドストエフスキイの場合、そうはいかないのである。(島弘之=著『小林秀雄 悪を許す神を赦せるか』より抜粋) 

島弘之氏のこの著書のタイトルに私は引っ掛かった。小林秀雄自身がどう考えていたのかは分からないが、「悪」ではなくこれは「罪」の間違いではないのか、と。

 

私は、今、何気なく機縁といふ言葉を使ったが、実際、ムイシュキンは、人間といふより、人間達が、自分にも思ひ掛けぬ自己を現す機縁の如きものとして、ただそれだけのものとして現れてゐるのである。(同上の小林秀雄の言葉) 

『白痴』を読んでいないので自分では何とも言えないのだが、色々ちらちら見ていると、ムイシュキンはキリストのような者として描かれている風だ。が、『罪と罰』のソーニャもそんな感じで描かれたのではないかと思える(『罪と罰』も読んでいないのだが)。

しかし、アリョーシャは違うだろう。『カラマーゾフの兄弟』を読み始める時、ドストエフスキーはアリョーシャをキリストのように描こうとしたのだろうかと思い、読むのをやめようかと思ったのだが、引き込まれて読んでみれば、そうではないと思った。

カラマーゾフの兄弟』ではキリストのような者は登場しないのではないかと私は思う。

 

小林秀雄は『カラマーゾフの兄弟』のイワンについて「だが、作者は、もうイヴァンには驚いてはゐない。イヴァンの力が弱くなつた為ではない、作者の力が強くなつたからだ」と書いているそうだ。そのあたりを受けて、島弘之氏は「しかし、この二人の「青年」は、それほどかけ離れた存在なのだろうか。殺人という行為に走った人物が発狂者よりも深い共感の対象とされている様子には、何か妙に偏ったところがありはしないか。」と書いている。ここで、「殺人という行為に走った人物」と言われているのはラスコーリニコフであり、「発狂者」はイワンを指していると思われる。

この言葉を読んで、『カラマーゾフの兄弟』までのドストエフスキーの作品(読んでないのにこう書いているのだが)では、殺人を犯した者がキリスト的な登場人物に罪の告白をするという形をとっていたのではないかと思わされた。けれど、カラマーゾフの三人は殺人は犯していない。そして『カラマーゾフの兄弟』では作中人物にキリスト的な人物は登場させていないように思われる。

 

「イヴァンの力が弱くなつた為ではない。作者の力が強くなつたからだ」という小林秀雄の言葉を受けて、島氏は「それがそのまま、件の「大審問官」という劇詩の孕む劇中劇的な二重の虚構性に小林が向ける醒めた眼差しと直結していることは言うまでもない。」と記している。

つまりこれは、ドストエフスキーの中では、悪の問題は解決されていたということだと私は考える。(小林秀雄もこのことに気づいていただろう。だから「作者の力が強くなったからだ」と言っているのだ。)

かつて私はブログで、カラマーゾフの兄弟の中ではイワンに最も共感すると書いたのだった。しかし、イワンの語る言葉は神から私たちを引き離そうとする言葉なのである。それは、どんなに優しげな装いを見せていたとしても、悪魔に違いない。それ故ドストエフスキーは、『大審問官』を語った後のイワンを悪魔として記しているのだ。

なぜか突然、兄イワンが身体を揺するようにして歩いていくのに気づいた。それに、うしろから見ると、右肩が左肩より下がっているようだ。これまでついぞ、こんなことには気づかなかった。だが、ふいに彼も向きを変え、ほとんど走るようにして修道院に向った。すでに日はとっぷりと暮れて、恐ろしいくらいだった。何か、とうてい答えを与えられぬような新しいものが、胸の中で育ちつつあった。昨日と同じように、また風が起り、僧庵の林に入ると、千古の松が周囲で陰鬱にざわめきだした。彼はほとんど走らんばかりだった。『《天使のような神父(パーテル・セラフィクス》 ー こんな名前を兄さんはどこから持ちだしてきたのだろう、いったいどこから(訳注 ファウスト第二部の最終場面に出てくる)?』アリョーシャはちらと考えた。『イワン、気の毒なイワン、今度はいつ会えるだろう?……あ、僧庵だ、助かった! そう、そうだ、長老のことか。長老さまがセラフィクス神父なのだ。あの方が僕を救ってくださる……悪魔から永遠に!』(原卓也=訳『カラマーゾフの兄弟 上』)

 

 

カラマーゾフの兄弟』では、実際に殺していない(悪を行っていない)主人公の三人が罪に苦しんでいるのである。

そして俺たちはみんな、その人たちに対して罪があるんだよ!なぜあのとき、あんな瞬間に、俺が《童》の夢を見たんだ?『なぜ童はみじめなんだ?』これはあの瞬間、俺にとって予言だったんだよ!俺は《童》のために行くのさ。なぜって、われわれはみんな、すべての人に対して罪があるんだからな。(略)俺は親父を殺してやしないけど、それでも俺は行かねばならないんだ。引き受けるとも!この考えはみな、ここで生まれたんだよ……漆喰の剥げたこの壁の中でさ。(『カラマーゾフの兄弟 下』) 

これは、父親殺しの容疑で捕らえられた長男ドミートリイの言葉だ。

 

「おぼえているだろう、いつか食後ドミートリイが家にあばれこんできて、親父をたたきのめしたとき、そのあと庭で俺が《期待の権利》は留保しておくとお前に言ったっけな。あのときお前は、俺が親父の死を望んでいると思ったかい、どうだ?」(『カラマーゾフの兄弟 下』) 

これは、イワンがアリョーシャに尋ねる場面だ。この問いに対してアリョーシャは、「思いました」と応える。

 

「わたしが今『そのほかいろいろなこと』と申しあげたのは、たぶんあなたご自身もあのときお父さまの死を望んでおられたはずだ、という意味でございますよ」

(略)

「何を探るんだと?何をだ?」
「つまり、その辺の事情をですよ。お父さまが少しでも早く殺されることを、あなたが望んでいらっしゃるか、どうかをです」

(略)

「(略)いったいどうして、俺のいったい何が、お前の卑劣な心にそんな卑しい疑念を起こさせたんだ?」
「殺すなんてことは、あなたはご自分では絶対にできなかったし、そんな気もありませんでしたが、だれかほかの人間が殺してくれたらと、それをあなたは望んでらしたんです」
「(略)どうして俺がそんなことを望むんだ、どういう理由で望むんだよ?」
「どういう理由で望むかですって?じゃ、遺産はどうなんです?」(『カラマーゾフの兄弟 下』) 

この場面は、イワンとスメルジャコフのやり取りの場面である。

ここから私はイエスの以下の言葉を思い起こす。

『姦淫するな』と言われていたことは、あなたがたの聞いているところである。しかし、わたしはあなたがたに言う。だれでも、情欲をいだいて女を見る者は、心の中ですでに姦淫をしたのである。(マタイによる福音書5:27,28)

「罪」とはこういうものを指すのだろうと思う。つまり殺していなくても、「心の中で死を願った」ということ。

 

「あなたといっしょにやっただけです。(略)」
「わかった、わかった……俺のことはあとだ。どうしてこんなに震えるんだろう……言葉が出てきやしない」
「あのころはいつも大胆で、『すべては許される』なんて言ってらしたのに、今になってそんなに怯えるなんて!」いぶかしげに、スメルジャコフが言った。

(略)

「もうたくさんです……話すことはありませんよ!」スメルジャコフはまた手を振った。「あなたはあのころ、すべては許されると、始終言ってらしたのに、今になってなぜそんなにびくついているんです、ほかならぬあなたが? おまけに自分に不利な証言までしに行くなんて……ただ、そんなことにはなりませんけどね! あなたは証言しに行ったりしませんよ!」スメルジャコフはまた確信ありげに断固として言った。

(略)

「いいですよ、殺してください。今殺してください」突然、異様な目でイワンを見つめながら、スメルジャコフが異様な口調で言い放った。「それもできないでしょうに」苦々しく笑って、彼は付け加えた。「以前は大胆なお方だったのに、何一つできやしないんだ!」(『カラマーゾフの兄弟 下』)

イワンとスメルジャコフのやり取りの最後の場面である。ここにスメルジャコフの罪が表されている。殺人の罪ではない。

 

 

 

では、アリョーシャはどういう罪を抱えていただろうか?