風と、光と・・・

すべての人を照らすまことの光があって、世にきた。(ヨハネによる福音書1:9)

アリョーシャの無力

以下、ドストエフスキーカラマーゾフの兄弟原卓也=訳(新潮文庫より抜粋引用。

 その後、一生の間に何度か彼は、この朝つい数時間前に、ぜひとも兄ドミートリイを探しだそう、たとえその夜は修道院に戻れぬ羽目になろうと、見つけぬうちは帰るまいと決心したばかりなのに、どうしてイワンと別れたあと、ふいにドミートリイのことをまったく忘れたりできたのだろうと、実にいぶかしい気持で思い起こしたものだった。 

 

 アリョーシャは顔じゅう涙に濡らして外に出た。ミーチャのこれほどの猜疑心、アリョーシャにさえいだいているこれほどの不信感 ー これらすべてが、不幸な兄の心にある、これまで考えてもみなかったような、やり場のない悲しみと絶望との深淵を、突然アリョーシャの前に開いてみせたのだった。深い限りない同情が、ふいに一瞬、彼を捉え、苦しめた。刺し貫かれた心がはげしく痛んだ。『イワンを愛してやってくれ!』突然、ミーチャの今の言葉が思いだされた。

 

 イワンは突然立ちどまった。

「じゃ、だれが犯人だ、お前の考えだと」なにか明らかに冷たく彼はたずねた。その質問の口調にはどこか傲慢なひびきさえあった。

「犯人がだれか、兄さんは自分で知ってるでしょう」心にしみるような低い声で、アリョーシャは言い放った。

「だれだ?例の、(略)、たわごとか?スメルジャコフ説かい?」

 アリョーシャはふいに、全身がふるえているのを感じた。

「犯人がだれか、兄さんだって知っているでしょうに」力なくこの言葉が口をついて出た。彼は息を切らしていた。

「じゃ、だれだ、だれなんだ?」もはやほとんど狂暴にイワンが叫んだ。それまでの自制がすべて、一挙に消え去った。

「僕が知っているのは一つだけです」なおもほとんどささやくように、アリョーシャは言った。「お父さんを殺したのは、あなたじゃありません」
「《あなたじゃない》! あなたじゃないとは、どういうことだ?」イワンは愕然とした。

「あなたがお父さんを殺したんじゃない、あなたじゃありません!」アリョーシャがしっかりした口調でくりかえした。

 三十秒ほど沈黙がつづいた。

「俺じゃないことくらい、自分でも知っているさ、うわごとでも言ってるのか?」青ざめた、ゆがんだ笑いをうかべて、イワンが言い放った。アリョーシャに視線が釘付けになったかのようだった。二人ともまた街燈のそばに立っていた。

「いいえ、兄さん、あなたは何度か自分自身に、犯人は俺だと言ったはずです」

「いつ俺が言った?………俺はモスクワに行ってたんだぞ………いつ俺がそんなことを言った?」すっかり度を失って、イワンがつぶやいた。

「この恐ろしい二カ月の間、一人きりになると、兄さんは何度も自分自身にそう言ったはずです」相変わらず低い、はっきりした口調で、アリョーシャはつづけた。だが彼はもはや、さながら自分の意志ではなく、何かさからうことのできぬ命令に従うかのように、われを忘れて話していた。

「兄さんは自分を責めて、犯人は自分以外のだれでもないと心の中で認めてきたんです。でも、殺したのは兄さんじゃない。兄さんは思い違いをしています。犯人はあなたじゃない、いいですね、あなたじゃありません!僕は兄さんにこのことを言うために、神さまに遣わされてきたんです」

(略)

「アレクセイ・フョードロウィチ」冷笑をうかべて彼は言った。「(略)今この瞬間から俺は君と絶交する。それも、おそらく永遠にな。頼むからたった今、この十字路で俺から離れてくれないか。(略)」

 彼は向きを変えると、ふりかえりもせず、しっかりした足どりでまっすぐ歩きだした。

「兄さん」そのうしろ姿にアリョーシャは叫んだ。「(略)」

 しかし、イワンは答えなかった。アリョーシャは、イワンの姿が闇の中にすっかり消えてしまうまで、十字路の街燈のわきにたたずんでいた。