風と、光と・・・

すべての人を照らすまことの光があって、世にきた。(ヨハネによる福音書1:9)

無力を知ることが・・(『カラマーゾフの兄弟』から考える)

無力を思い知らされることが罪の自覚の契機となる。

では、無力とは何においての無力なのか?

もちろん、愛することにおける無力である。それ以外ではあり得ない。

 

ドストエフスキー「キリストの教えどおり、人間を自分自身のように愛することは不可能である」と日記に書いているそうだが、ここで言及されているキリストの教えはマタイ福音書に記された『隣人を自分のように愛しなさい。』(19:19、22:39)であろう。

しかし又、別の所では、イエスは次のようにも言っている。

しかし、わたしは言っておく。敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。(マタイ5:44)
自分を愛してくれる人を愛したところで、あなたがたにどんな報いがあろうか。(マタイ5:46)
自分を愛してくれる人を愛したところで、あなたがたにどんな恵みがあろうか。罪人でも、愛してくれる人を愛している。(ルカ6:32)

 

世界の恵まれない子ども達のために活動している人達がいる。そういった現場で働いていた知人の娘さんは体を壊して仕事を辞められた。理由は分からないが、そういった仕事は焼け石に水の大変な仕事であることだけは確かだろうと思う。

 

狭い世界で自分の延長線にあるような家族を愛したからといって「そんなものは愛でも何でもない」と思って、『カラマーゾフの兄弟』のイワンではないが、遠くにいる顔の見えない人々のことを心にとめるということにおいて「愛」を追求していこうとすると、それはいつしか反転して、どこにいるか分からない人を愛しても自分の家族を愛せないようでは愛したとは言えないではないか、という思いへと引き戻されていく。

そしてそこから、お前は家族さえ愛せないじゃないかということに気付かされていくのだ。

 

「あいつが言ったんだ」疑念も許さずに、イワンがきっぱりと言った。「なんなら教えてやるけど、あいつはその話ばかりしていたよ。『君が善を信じたのは結構なことさ。話を信じてもらえなくたってかまわない、俺は主義のために行くんだから、というわけか。しかし、君だってフョードルと同じような子豚じゃないか、君にとって善が何だというんだ?君の犠牲が何の役にも立たないとしたら、いったい何のためにのこのこと出頭するんだね?(略)』こう言うと、あいつは立って、出て行ったんだ。お前が来たもんで、逃げて行ったのさ。あいつは俺を臆病者よばわりしやがったぜ、アリョーシャ!俺が臆病者だというのが、あの謎の答えなんだ!『そんな鷲は、大空高く舞うことはできないよ!』あいつはこう付け加えやがった、こう付け加えたんだよ!スメルジャコフもそう言いやがったっけ。あんなやつは殺さなけりゃ! カーチャは俺を軽蔑してるんだ、俺にはもう一カ月も前からわかっている。それにリーザまで軽蔑しはじめるだろうさ! 『ほめてもらいに行く』こんな残酷な嘘があるかい! お前も俺を軽蔑してるんだな、アリョーシャ。これからはまたお前を憎むぜ。あの人でなしも憎い、俺はあの人でなしも憎んでいるんだ!あんな人でなしを救いたくはないさ、流刑地でくたばりゃいいんだ!讃歌なんぞうたいだしやがって! ああ、明日は行って、みんなの前に立って、みんなの面に唾をひっかけてやる!」(『カラマーゾフの兄弟 下』(新潮文庫)p368~p370) 

 

 

「お前に一つ告白しなけりゃならないことがあるんだ」イワンが話しはじめた。「俺はね、どうすれば身近な者を愛することができるのか、どうしても理解できなかったんだよ。俺の考えだと、まさに身近な者こそ愛することは不可能なので、愛しうるのは遠い者だけだ。(略)人を愛するためには、相手が姿を隠してくれなきゃだめだ、相手が顔を見せたとたん、愛は消えてしまうのだよ」

「そのことはゾシマ長老も一度ならず話しておられました」アリョーシャが口をはさんだ。「(略)でも、人類には多くの愛が、それもキリストの愛にほとんど近いような愛がありますよ。そのことは僕自身よく知っています、兄さん……」

「ところが今のところ俺はまだそんなことは知らないし、理解もできないね。(『カラマーゾフの兄弟 上』(新潮文庫)p594)

赤字表記は管理人myrtus77による)

 

ここの所では、アリョーシャはまだゾシマ長老の死を経ていない。だから、

 

何よりも、あなたは僕より清純ですよ、僕はもうずいぶんいろいろなものに触れてしまっているから……ああ、あなたは知らないんですよ、僕だってカラマーゾフですからね!(『カラマーゾフの兄弟 上』(新潮文庫)p545) 

 

カラマーゾフ的な罪の自覚でしかないのだ。