愛する行為は様々あるかも知れない。また、愛するとは人を幸せにすることだということも出来るかも知れない。
しかしキリスト教においては、究極的に愛するとは死から救い出すことであると言えるだろう。
罪とは愛せないということに他ならない。
つまり罪の中にあって愛することができないとは、死から救い出すことができないということに等しい。
罪によって死が入り込んだように、死はすべての人に及んだのです。すべての人が罪を犯したからです。(ローマの信徒への手紙5:12)
罪が死によって支配するに至ったように、(ローマ人への手紙5:21)
律法以前にも罪は世にあったが、律法がなければ、罪は罪として認められないのである。(ローマ人への手紙5:13)
人を愛する者は、律法を全うするのである。「姦淫するな、殺すな、盗むな、むさぼるな」など、そのほかに、どんな戒めがあっても、結局「自分を愛するようにあなたの隣り人を愛せよ」というこの言葉に帰する。(ローマ人への手紙13:8,9)
この子は自分の民を罪から救う(マタイによる福音書1:21)
憐れみ豊かな神は、わたしたちをこの上なく愛してくださり、その愛によって、罪のために死んでいたわたしたちをキリストと共に生かし、(エフェソの信徒への手紙2:4,5)
わたしたちは、自分が死から命へと移ったことを知っています。兄弟を愛しているからです。愛することのない者は、死にとどまったままです。(ヨハネの手紙一3:14)