「隣人を愛しなさい」(マタイ22:39)というキリストの教えには、「自分のように」という規定が設けられている。それゆえドストエフスキーも「キリストの教えどおり、人間を自分自身のように愛することは不可能である」と書いているのだが、この日記の続きには次のように記されている。
愛によって自身の自我を人々のために、他者(私とマーシャ)のために犠牲に供しえないとき、人間は苦悩を感じ、この状態を罪と名づける。
「他者(私とマーシャ)」、他者の中に「私」も含まれているのである。これはつまり、愛の対象には自分も含まれているということだ。
「自分を愛する」、これはまた難題ではないだろうか。自分を死から救い出すということだ。
わたしたちは、兄弟を愛しているので、死からいのちへ移ってきたことを、知っている。愛さない者は、死のうちにとどまっている。あなたがたが知っているとおり、すべて兄弟を憎む者は人殺しであり、人殺しはすべて、そのうちに永遠のいのちをとどめてはいない。主は、わたしたちのためにいのちを捨てて下さった。それによって、わたしたちは愛ということを知った。(ヨハネの第一の手紙3:14~16)
私は、「隣人を愛するとは死から救い出すことだ」、と書いた。しかしここでは、愛することで自分自身を死から救い出しているのである。
しかしまた、「隣人を自分のように愛せよ」と言われたキリストは次のようにも言われるのだ。
それから、イエスは皆に言われた。「わたしについて来たい者は、自分を捨て、日々、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。(ルカによる福音書9:23)
この後には、
自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのために命を失う者は、それを救うのである。(ルカによる福音書9:24)
の御言葉が続く。
「愛」と「罪」と「死」が、私と隣人を取り囲んでぐるぐると廻っているようだ。三位一体の神へとつながっていくようである。