風と、光と・・・

すべての人を照らすまことの光があって、世にきた。(ヨハネによる福音書1:9)

キリストの無力と人間の無力(島弘之=著『小林秀雄 悪を許す神を赦せるか』から考える)

夫が図書館から借りてきた本を横取りしてちらちらと読んでいた。

島弘之=著『小林秀雄 悪を許す神を赦せるか』

その中で、小林秀雄「アリョオシャの無力には、ムイシュキンの無力とは全く異なったものがある」と書いていると知った。私は『白痴』を読んだことがないので、どういう意味で小林秀雄がこう言ったのかは分からないのだが、この言葉を読んで、キリストの無力にも人間の無力とは「全く異なったものがある」だろうと思ったのだった。

私たちの罪を贖うために人となって来られた「キリストの無力」と、罪に堕ちて罪の世界で生きる「私たちの無力」には大きな違いがあると思われる。

本来全能の力を持った方が、父の命に従って無力に徹するというのはどれほどの忍耐が必要だったろうか、と。

 

荒野での悪魔も、「神の子なら(出来るだろう)」という言葉によって誘惑する。出来ない人間は出来ないまま無力に留まるしかないが、石をパンにかえることがキリストには出来るのだ。

神に従うために本来なら出来ることをしないというのは、相当な力がいるように思われる。自分の力を封じ込める力である。力を持っていればいるほど(封じ込める)力を必要とするのではないだろうか。

 

神に従うために出来ることをしないというのは、自由の問題とも繫がっていく事柄である。神から取って食べるなと言われていた園の中央に植えられた木の実は、取って食べることが出来た。そして人間は取って食べた。

荒野の誘惑においてキリストは、「無力」と共に、「自由」というものにも対峙されたのだ。そのことはまた、十字架上で最大限に示される。

 

「他人は救ったのに、自分は救えない。イスラエルの王だ。今すぐ十字架から降りるがいい。そうすれば、信じてやろう。神に頼っているが、神の御心ならば、今すぐ救ってもらえ。『わたしは神の子だ』と言っていたのだから。」(マタイによる福音書27:42,43)

 

キリストは、十字架から降りないという自由を選び取って無力の中に留まられた。

 

愛は…すべてに耐える。(コリントの信徒への手紙一13:7)