風と、光と・・・

すべての人を照らすまことの光があって、世にきた。(ヨハネによる福音書1:9)

「人生の分水嶺」(ルカによる福音書16:19~31)

昨日の礼拝は、この3年ずっと支えてきて下さった引退教職の先生によって守られた。

以下は、お説教原稿より全文書き起こし。

「人生の分水嶺」(ルカによる福音書16:19~31)

 取り上げましたのは、主イエスが語られたたとえ話である。主イエスは、たとえ話を多く用いられました。その目的は、三つあると言われる。①わかりやすくする。②考えさせる。「聞く耳のある者は聞きなさい」(マルコ4:9)③決断を求める。有名な数学者にしてキリスト教思想家であるパスカルは、信仰は賭けだと言った。もし今、ここに求道中の方がいらっしゃったら申し上げたい。やがて、決断しなければならないときが来るということである。そのことを考えながら求道の生活をしていただきたい。

 さて、これからお話しするたとえには、金持ちとラザロという貧乏人とが登場する。二人はそれぞれの死を境に逆転してしまった。一方は天国に他方は地獄に行ったという話である。主イエスは、天の国とか神の国について多く語られた。「天の国は次のようにたとえられる」とか「神の国は次のようなものである」と説教された。ところが、地獄について正面切って話されることはなかった。この点、仏教などとは違っているのではないか。お寺などに行くと地獄絵図とかあって、子どもにでも分かるようにその恐ろしさを教えている。それに比べると聖書、特に主イエスの説教では極端に少ない。そのためだろうか、キリスト教には地獄というものがあるのかと質問されることがある。このような質問がなされるほど地獄について語られることが少ない。これには理由がある。キリスト教の信仰は地獄に行くのがいやだからキリストを信じるとか、キリストに従うとかいう信仰ではないからである。宗教改革者マルチン・ルターは、「キリストがご一緒なら地獄に行ってもよい」と言った。

 ところが、この譬えでは、はっきりと地獄について語っている。地獄があることを教えている。もしキリスト教会が、地獄がないかのように福音を語るとしたら、その福音は偽物である。主イエスは言っておられる。「だれを恐れるべきか、教えよう。それは、殺した後で地獄に投げ込む権威を持っている方だ。そうだ。この方を恐れなさい」(ルカ12:5)と。地獄に定める権威のない者から罪を赦すと言われても、そのような赦しには何の意味も力もない。

 

Ⅰ 金持ちであること

 このたとえそのものを見てみよう。「ある金持ちがいた」という書き出しである。つづいてどのくらいの金持ちであったか説明されている。「紫の衣」を普段着としていた。紫という色は、英語で“royal perple”と言うように王侯、貴族の着物である。「柔らかい麻布」を着ていた。下着である。「織られた空気」と言われて肌触りは抜群であった。しかし、彼について語りえるのはこれだけである。彼の人生のすべてをこの「金持ちであった」で言い尽くされているという意味である。そのような彼にどんな人にも来る死が襲った。神から最も離れた世界であり、神に見捨てられたところである地獄に投げ込まれた。23節によると地獄から天国が見えていると言う。これは苦しみを一層大きくする。すべての人が例外なく地獄に行くのであれば耐えやすいかもしれない。しかしそうではない。惨めさがいっそう倍加する。

 金持ちは、ここで初めて神というご存在が自分の命に絶大な権威を持っているかを知った。それまではそのようなことを一度も考えたことはなかった。このたとえは、金持ちは地獄に行くと言っているのではない。お金を神としてしまって、真の神を自分の生活領域に入れていなかったことが、決定的であった。確かに冠婚葬祭の時には神を意識したかもしれない。しかし、それも終わってしまえばそれまでと何ら変わらず、神と無縁の生活を続ける。それが重大な失敗であったことを金持ちは地獄で気がついたのである。遅かった。

 

Ⅱ 貧乏人ラザロ

 一方、貧乏人ラザロはどうであったか。20〜21節でこう紹介されている。この人についても、その生涯を総括すれば重い病気を持った貧しい人としての一生であったと。ところが、主イエスはこの人は「ラザロ」という名があったと言っておられる。主イエスの語られたたとえは多いが、登場人物に名をつけられることは他に一度もない。ということは、この貧しい人がどういう人であったかを説明する大切な点であるということである。名は体を表すというがラザロにおいても当てはまる。ラザロとは「神はわが助け」という意味だからである。彼は、神のみに頼り、神に慰めを見出して極貧のなかを生きて来た人であった。日々の生活の中でしっかりと神を見上げ、生きる力として来た。かけがえのない方として信じて生きた人であった。

 金持ちは、神を自分の死活の中から完全に放り出して平気であった。しかし、地獄に来て信じていなかったことを見なければならなかった。他方ラザロは、信じていたことをその目でみることになった。彼は、生前から事実上天の国に属していたからである。この事実が決定的なことであった。

 今日のこの説教の題を「人生の分水嶺」としたのはこの点をお話ししたかったからである。日本列島には、北海道の北の端、宗谷地方から鹿児島の南端、大隅半島に至るまで中央分水嶺が走っている。分水嶺に降った雨水は、ほんの少し、数センチの違いで日本海に行くか太平洋に行くかが決まる。今、わたしたちが歩みつつある人生は、2000年余り前に神の独り子イエス・キリストがお出でになって以来、分水嶺の上を歩いている人生である。主イエスが、「時は満ちた。神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」と言われて以来、わたしたちは神に直面している時を生きているのである。しかし、今、分水嶺の上を歩んでいることは分かりづらい。分水嶺にも分かりやすいのと分かりづらいのとがある。日本アルプス分水嶺は、はっきりしている。分かりづらいのは、平地を走っている分水嶺である。兵庫県の中央にある。海抜95メートルの分水嶺である。小さな川の土手である。実際にその上を歩いてみた。右と左で大きな違いをもたらすとはとうてい思えない。しかし、やがて死を迎えて知る。これを恐れなければならない。

 

Ⅲ 聖書によって

 地獄に来て初めて自分が間違っていたことに気づいた金持ちは、兄弟だけは自分と同じ過ちを犯してほしくないと思い、ラザロを地上に遣わしてほしいと願った。31節にそれに対する答が記されている。聖書に聴く以外に人生の分水嶺に気づかないし、分水嶺がもたらす大きな違いを知ることはないと言われる。もし、ここに求道中の方がいらっしゃるなら申し上げたい。聖書に耳を傾ける生活を大切にしていただきたい。そして決断の時を逃さないでいただきたい。

 

夫が倒れてからのこの3年、私にとっては大変な年月だったが、このように豊かにお説教をお聴きすることができ、幸いな年月でもありました。

先生ご夫妻の上に主の御祝福を祈りつつ、感謝してお説教を掲載させて頂きました。

 

 

さくらは、

一気にひらく。