風と、光と・・・

すべての人を照らすまことの光があって、世にきた。(ヨハネによる福音書1:9)

娘を支えた聖書の御言葉

『聴く』に載せるために依頼していた「聖書の御言葉」が選ばれて娘から提出された。けれど、来春にはここを辞めるので、『聴く』を出せる回数も限られている。それで、このブログに載せることにした。2013年から2017年、いや今年に入ってからも、娘はアトピーと闘っていた。そしてこのブログは、娘のアトピーとの闘いの記録でもある。

この秋、娘の友人達が会いにやってきた。娘が具合が悪くて都心に出て行けないから、あちらから来てくれたということだ。その友人達に、酷かった時の自撮りした自分の顔を見せたと言う。「アトピーで具合が悪いと言っても、どれくらい悪いのか実際に見なければ分かっては貰えないだろう」と思った、と言う。

苦しんでいる人達、弱い人達に寄り添う、ということがしばしば言われる。しかし、「魂の苦しみを知るのは自分の心。その喜びにも他人はあずからない」(14:10)箴言にも言われているように、本当に苦しんでいる者に寄り添うことは身内でも出来ないものだ。

渡された御言葉と添えられた一言を見て、娘のアトピーとの闘いは信仰の闘いでもあった、と私は思った。

以下、

「わたしはあなたがたを愛している」と主は仰せられる。
あなたがたは言う。
「どのように、あなたが私たちを愛されたのですか」と。
マラキ書1:2

2013~2017年のこと、私は神さまの何に信頼を置いて信じていたのかが分からなくなっていた。そんな折にたまたま読んだこの聖句。一言一句、私が思っていたことがそのまま聖書に載っていた。私達が神に抱く不信感でさえも主はよく知っておられる。


おのれを閉ざす者は自分の欲望のままに求め、すべてのすぐれた知性と仲たがいする。
箴言18:1

とにかくしんどいのはもうたくさんだった。自分の中には不安と劣等感と不信感ばかりで、自分を守るために人に対しても神さまに対しても心を閉ざしていた。


八日ののち、イエスの弟子たちはまた家の内におり、トマスも一緒にいた。戸はみな閉ざされていたが、イエスがはいってこられ、中に立って「安かれ」と言われた。
ヨハネによる福音書20:26

怯えて閉ざされている場に主は来られ、安かれと語りかけてくださる。

 

あなたは終わりまで歩み、休みに入れ。
あなたは時の終わりに、あなたの割り当ての地に立つ。
ダニエル書12:13

最近になって私は生きるのが怖いのだと気付かされた。神さまは終わりまで歩むようにと言われる。しかし、延々と歩むのではなく終わりが確かにある。そこには私の居場所が用意されており休息が与えられるのだと。


彼らはそこに安らかに住み、
家々を建て、ぶどう畑を作る。
彼らは安らかにそこに住みつこう。
回りで彼らを侮るすべての者に
わたしが裁きを下すとき、
彼らは、わたしが彼らの神、
主であることを知ろう。
エゼキエル書28:26

用意されている場所では満ち足りた平安と喜びが私を待っている。だから、どんな人生だったとしても安心して生きなさいと主は何度となく言われる。

 

私たちは、御前に生きるのだ。
私たちは、知ろう。
主を知ることを切に追い求めよう。
ホセア書6:2-3

恐れを抱えながらも主の前に生きよう。
心を開いて主の御言葉を求めたい。


なんと幸いなことでしょう。
その力が、あなたにあり、
その心の中にシオンへの大路のある人は。
詩篇84:5

シオンへの大路は神さまへの真っ直ぐな広い道のこと。目の前の不安を見るのではなく人生という道の先に主を見つつ歩めたら…。

 

● 聖句による黙想36

わたしは、とこしえの愛をもってあなたを愛し/変わることなく慈しみを注ぐ。エレミヤ書 3章 3節)

 神の言葉に対して、人は問い続ける。「果たしてそうだろうか」と。聖書神の言葉だと語られ続けられる限り、おそらく人は世の終わりまで問い続ける。

 そして、神の民によって「アーメン。然り、そのとおりである」と告白され続ける。

 一人ひとりの人生を通して、人類歴史を通して、聖書は問われ続け、検証され続ける。戦争時代にも、疫病の時にも、悲しみの時にも、絶望の時にも。

 けれど、変わらずに聖書は語り続ける。「わたしは、とこしえの愛をもってあなたを愛し/変わることなく慈しみを注ぐ」。