風と、光と・・・

すべての人を照らすまことの光があって、世にきた。(ヨハネによる福音書1:9)

遠藤周作『沈黙』を巡って


● 『私たちは怖れていない(Women's March)』と映画『沈黙』
遠藤周作の小説「沈黙」を、『ウルフ・オブ・ウォールストリート』などのマーティン・スコセッシが映画化したもの。題材が宗教ということで『抹香臭かったら嫌だな』と思いながら、期待しないで見に行ったんですが、これがこれが、大変面白かった。
(中略)
お話はキリスト教がどうのという話にとどまりません。(中略)愛を説く神父としてはキリシタンたちに踏み絵に応じるよう勧めるべきではないのか。自分たちが日本に来たからこそ、多くの人が弾圧を受けるのではないか。
(中略)
この映画のテーマは宗教だけじゃない。世界中の誰にでも当てはまる普遍的なお話です。自分の信念と社会とのぶつかり合いは、自分が社会の中でどうやって生きていくかってことにもつながります。これってサラリーマンも専業主婦も兼業主婦も学生も、我々みんながぶち当たる問題ですよね。この映画は1宗教に過ぎないキリスト教を題材にしながらも、誰にでも当てはまる命題に昇華させることに成功しています。(抜粋引用)

信仰者であった遠藤周作が小説『沈黙』の中で犯した過ちは一つだと私は思う。それは、キリストに成り代わって司祭に赦しの言葉を告げたこと、だ。
しかしこの過ちは、牧師が礼拝の説教の中で犯すかも知れない過ちなのである。聖書に則さないで神に成り代わって赦しを宣言するなら、あるいは逆に裁きを言い渡すなら、それは遠藤が『沈黙』の中で犯した過ちと同じものになる。どちらの過ちが重いかは知らない。多くの人に広く読まれる小説の中で犯した過ちが軽いとは言えないかも知れない。しかし・・。

私の属する教派の長老の務めには、「教理を擁護する」というものがある。「教理を擁護する」とは、牧師が聖書を正しく語っているかどうかを判断するということである。そして、正しく語っていない場合には指摘するという務めである。
私は今年、教会の総会でこんな発言をした。「長老方が『教理を擁護する』という務めを果たさなければ、教会員は間違った説教を聴き続けることになります。そして場合によっては間違った信仰を持つことになるのです。どうか長老の皆さんにはこの務めを一丸となって担っていただきたいと切にお願い致します」
長老の一人がこの務めを果たして説教の間違いを指摘しても、おそらく聞かれることはないだろう。牧師は、自分の語ることが間違っていると思っては語ることが出来ないからだ。
牧師に妻がいるなら、どこにも規定として記されていなくても、牧師の妻もこの務めを担うべきだろうと私は思う。しかしそのためには、牧師の妻は、夫の信仰から自律した、神によって立つ信仰を持っていなければならない。


たぶんわたしは踏むだらう展示館に見るこの形而下の板踏絵など 高尾文子『エレミヤ』


誇ろうとしてわが身を死に引き渡そうとも、愛がなければ、わたしに何の益もない。(1コリントの信徒への手紙13:3)