風と、光と・・・

すべての人を照らすまことの光があって、世にきた。(ヨハネによる福音書1:9)

神は、しばらくの苦しみの後、あなたがたをいやし、強め、力づけ、不動のものとして下さるであろう。(ペテロの第一の手紙5:10)

あちこち色々なところに腹を立てたり、両親の介護のためにこちらに帰っている(数年前に大病を患った)友のことが気になったりして、心も頭もフル回転させているのでなかなか風邪も腰も良くならない。それで娘から「だから、怒りを遅くした方がいいって言ってるんだよ」と注意されているのだが、これは神様から「待った!」をかけられている状態なのだと自分では受け止めている。「お前は今、自分の考えで勝手に動くんじゃない。時が来たら、私の指示通りに動きなさい」、と。

私に洗礼を授けた牧師は、「キリストを本当に信じて従おうとするなら、男は皆、牧師になるはずだし、女は皆、牧師の妻になるはずだ」等と言っていた。その言葉を聞きながら、「おかしなことを言う人だ」と私は思っていたのである。私が洗礼を受けた教派は数年前まで女性の牧師を認めていなかったから、「女も牧師になるはずだ」とは言えなかったというのは理解できる。しかし、「牧師の妻になるはずだ」というのはどう考えてもおかしな物言いだと言わねばなるまい。
本当は、牧師になるのですら神からの召命がなければなれないとは思うが、牧師の妻になるには結婚相手から選ばれなければならないのだから、自分の希望だけでなれるものではないだろう。そういう、十代の小娘がちょっと考えても分かるようなおかしさをこの牧師は分からないのだろうか、と心の中で訝しんでいたものだ。けれど私は、そういうことを決して口にはしない人間だった。最近は嫌悪感をあからさまに顔に出すように努めているが、若い頃の私は表情にも出していなかっただろうと思う。

昔から、私には尊敬する人物というものがない。自分に洗礼を授けてくれた牧師であっても、あるいは師と認めた人間であっても、欠点やおかしさを含めて理解するということはしても尊敬の対象にしたことはない。まして闇雲に盲従するなどということは考えられない話である。
弱さや欠けを抱え持った人間を尊敬するというのは偶像崇拝への一歩だと、キリスト教徒は心得ておかなければいけないと思う。信徒が牧師を尊敬するなどというのは、以ての外だと判らなくてはいけない。

しかし、結婚相手にだけは尊敬の念を抱けなくてはいけないと考えている。結婚相手のどこかしらに尊敬の念を抱かせるものを見出すのでなければ、実質的に結婚生活を持続することは出来ないだろう。が、尊敬の念を起こさせるのは、その人間が努力をして身につけたものではないのである。それは、神から賜ったその人間に固有の資質なのだ。
私と夫は物事の捉え方も感じ方も、果ては信仰というようなものまで、対極に位置している。先日も、「来年のは、つまらないデザインだ」と言って夫が取り出してきた手帖を見て、私は「ネイビーブルーにゴールドの横文字が入って、すっきりとして格好良い」と思ったものだ。
そんな風だから、若い頃から喧嘩も良くしたし、「自分の考えが正しいと思い込んでいて、何て此奴は頑固なんだ」と思うこともしばしばである。けれど、よ〜く見てみると、「この人は本気でそう思っているんだ」と気づくことがある。そして、「この人は本当に福音を語り伝えたいと思っているんだ」と分かると、「私が牧師になるのではなく、この人が牧師になって、私がこの人の妻になる」という神の配置の為さり様は正しかったのだ、と思うのだ。

そうなのだ。二十代の一時期、私は牧師になりたいと考えていた。牧師になることが、キリストの最も近くに身を置くことになると考えたからだ。私はキリストから離れたくなかった。そう思うのは、ともすればふらふらと離れていきそうな心許ない信仰でしかなかったからだ。けれど、祖父の介護をするために母が仕事を止めなくてはならなくなったから、私は小学校の教員になって働かなければならなかった。私の二十代の十年は、思い描いた道をことごとく神様から阻止された十年だった。そうして私は、その十年の後、牧師の妻になったのだ。
私は、「自分の考えの正しさにばかり固執して福音(キリスト)を語れないようなら、牧師など辞めてしまえ」と夫に向かって言う妻なのである。損な役回りだと思うが、これが、主から私に託された務めなのだと理解している。

奉仕する者は、神から賜わる力による者にふさわしく奉仕すべきである。(ペテロの第一の手紙4:11)

この御言葉は、「語る者」について述べられた後に記されている言葉である。ここでは、「奉仕する者」を、この後の5章に記されている「キリストの苦難についての証人である長老」に対する「執事」として理解することも出来るかも知れない。が、「語る者」という説教者に対する者として、「牧師の妻」と捉えることも可能ではないかと思う。いずれにしても、奉仕する者は「神から賜る力」によって奉仕するということである。自分の力で、勝手に仕えることができるわけではない。
奉仕の務めというのは地味で目立たない。むしろ、見返りや華々しい賞賛とは無縁なところでひっそりと行われる必要のある場合さえある務めである。「あの人は控えめだけど、陰では牧師をしっかり支えている」等という安っぽい人からの褒め言葉に支えられて果たせるような務めではない。

この4章11節の御言葉の後に、次の言葉が続いている。

愛する人たち、あなたがたを試みるために身にふりかかる火のような試練を、何か思いがけないことが生じたかのように、驚き怪しんではなりません。(ペトロの手紙一4:12)

仕えるためには訓練を受けなくてはならない。「そっちではなく、お前はこっちに進むのだ」と、何度も何度も主から行く手を阻まれなくてはならない。「自分の力で担うのではなく、神からの力によって担うのだ」と分かるまで、何度も打ち砕かれなくてはならない。主は、用いるために打ち砕かれるのである。あるがままで良いわけではない。

私は、また、用いられようとしている、と思う。用いられるのは牧師ばかりではない。

あなたがたをキリストにある永遠の栄光に招き入れて下さったあふるる恵みの神は、しばらくの苦しみの後、あなたがたをいやし、強め、力づけ、不動のものとして下さるであろう。(ペテロの第一の手紙5:10)

二十代の頃の私を支えた聖書の言葉が、ここにも、あった!