風と、光と・・・

すべての人を照らすまことの光があって、世にきた。(ヨハネによる福音書1:9)

赦しを受容するということは・・(ティリッヒと『カラマーゾフの兄弟』から)

ただ赦しの受容のみが、怒りの神のイメージを究極的に妥当する愛の神のイメージに変えることができる。(ティリッヒ=著『組織神学第二巻』「1D4絶望の意味とその諸象徴」“ b 神の怒りの象徴 ”(新教出版社)より)

大好きなティリッヒの神学書からの引用である。けれど私は、ここに続けてこう書き足さねばならないと思う。「赦しを受け入れるということは屈伏するということに他ならない」、と。
人は誰も、「あなたのために十字架を負った」などと恩着せがましいことを言われたくはないのだ。卑屈な想いで表面上それを受け入れたとしても本当には受け入れてはいないか、あるいは深く考えていないかのどちらかなのだ。だから本物のキリスト教徒は少ないし、多くの者が洗礼を受けても離れていくのである。
私たちは、「誰かに赦してもらわなければならない落ち度など自分にはない」と思いたい。全ての事柄について、これは自分の力で成し遂げたことだと出来れば思いたい。なけなしの自分の力に自負して生きているのだ。そうしなければ生きていけないのである。「自分は無力な人間だ」と認めて生きていける者など一人も居はしない。そうであるなら、ここに至るためには神と闘って屈伏しなければならないのではないか、と私は思う。

けれどまた、ここまで考えて私は思うのだ。自らは格闘しなくても、格闘して屈伏した人のあることを知って、神に赦していただかなければ生きていけない罪を自らも抱えているのだということを頭の片隅に置いて生きていくという道がある、と。そこを足場として一歩踏み出すことができるのだ、と。

また、こうも考える。いっそ重荷を背負ってしまった方が楽になるのではないか、と。重荷を自ら背負って、「重荷を負うて苦労している者は来なさい」と言ってくださる方のところに行って、時折、重荷をおろして、また背負い直す。そういう生き方も出来るかも知れない、と。


『…われわれの太陽が見えるか、お前にはあの人が見えるか?』
『こわいのです・・・・見る勇気がないのです・・・・』アリョーシャはささやいた。
『こわがることはない。われわれにくらべれば、あのお方はその偉大さゆえに恐ろしく、その高さゆえに不気味に思えもするが、しかし限りなく慈悲深いお方なのだ。愛ゆえにわれわれと同じ姿になられ、われわれとともに楽しんでおられる。客人たちの喜びを打ち切らせぬよう、水をぶどう酒に変え、新しい客を待っておられるのだ。たえず新しい客をよび招かれ、それはもはや永遠になのだ。…』
 何かがアリョーシャの心の中で燃え、何かがふいに痛いほど心を充たし、歓喜の涙が魂からほとばしった・・・・
(中略)
アリョーシャはたたずんで眺めていたが、ふいに足を払われたかのように地べたに倒れ伏した。
 何のために大地を抱きしめたのか、…。何を思って、彼は泣いたのだろう?…。さながら、これらすべての数知れぬ神の世界から投じられた糸が、一度に彼の魂に集まったかのようであり、彼の魂全体が《ほかの世界に接触して》、ふるえていたのだった。彼はすべてに対してあらゆる人を赦したいと思い、みずからも赦しを乞いたかった。ああ、だがそれは自分のためにではなく、あらゆる人、すべてのもの、いっさいのことに対して赦しを乞うのだ。『僕のためには、ほかの人が赦しを乞うてくれる』ふたたび魂に声がひびいた。…。大地にひれ伏した彼はかよわい青年であったが、立ちあがったときには、一生変わらぬ堅固な闘士になっていた。そして彼は突然、この歓喜の瞬間に、それを感じ、自覚したのだった。アリョーシャはその後一生を通じてこの一瞬を決して忘れることができなかった。「だれかがあのとき、僕の魂を訪れたのです」後日、彼は自分の言葉への固い信念をこめて、こう語るのだった・・・・・(原卓也=訳『カラマーゾフの兄弟』「アリョーシャ」“ガリラヤのカナ”(新潮文庫)より)


 …神は、分離状態においてもなお創造的にーたとえその創造性が破壊の道をとるにしてもーわれわれのうちに働いている、と言わなければならない。人間は、呪詛の状態にあってもなお存在の根拠から切断されていない。(ティリッヒ=著『組織神学第二巻』「1D4絶望の意味とその諸象徴」“ c「呪詛」の象徴 ”(新教出版社)より)