風と、光と・・・

すべての人を照らすまことの光があって、世にきた。(ヨハネによる福音書1:9)

牧師の妻

われという孤島に誰か流れ来よ牧師夫人の読む漂流記  松村由利子

 この短歌は、歌人である松村由利子さんの『大女伝説』(短歌研究社の中の一首である。この歌集を初めて開いた時、牧師の妻である私はこの歌に興味を引かれたのだった。けれど何度か開くうちに、この歌の直前に措かれているこんな歌に注目するようになった。

湖の真中に小さき島ありてみにくき禽(とり)を一羽棲まわす
 『大女伝説』を読み返すうちに、この歌人は、人が身内に抱え持つ罪(と呼んで良いだろうか?)を見尽くそうとしているのではないかと思うようになった。例えば以下のような歌から。

根絶やしという語おそろし草取りをしつつ思えり伴天連(ばてれん)追放令
わたくしを引っくり返せ青黒く蠢くものを見たくはないか
小心のヌーなりわれは駆け出した群れの真中に誰か裏切る
胸郭は大き藍甕(あいがめ)夏草を刈りたる後の闇潜むなり
原罪は内腑に宿る豚の耳ほそく刻みてぬめる指先

 最後に引用した歌などを見れば、食べて存在していること自体が罪であると言っているかのようだ。

 さて、牧師夫人と言えば、『赤毛のアン』の作者モンゴメリも牧師の妻であったようだ。が、モンゴメリうつ病の夫を支えながら、晩年、夫よりも先に自死によって他界する。
 様々な周囲の思惑に気を取られてゆくなら、牧師の妻であっても自己を見失ってしまう。人ではなく神に向き合い、神の前に自己を取り戻す時間を何としても確保せねばならないと思う。

エスは…しかって言われた、「サタンよ、引きさがれ。あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている」。(マルコによる福音書8:33)

      島よ
              伊藤海彦

島よ
碧い日々にとりまかれているものよ
時の波に 洗われているものよ
翼もなく 鰭もなく
涯しなさに うづくまるもの
距てられ ただひとり 耐えているもの
憧れと 虚しさ あまたの眼に
みつめられているものよ
ー島よ

まぶしさに 吹かれながら
島は夢みる
波の言葉に誘われて いつか
漂うことを

見捨てられた沈黙
その悲しみを断ち切って
ある日 ふと 魚のように
漂うことを

 ーかすかに煙る 明日
 沖の彼方の 煙る明日
 
ああ だが
どこに行けるというのだろう
遠い昔からそうだったように
島は、さだめられたひとりを生きる

        ・
        ・
雨は降り
風まじり、雨はつのり
島は確かめる
ひとときごとに失われる自分を
島は濡れ 島は沈む
島であることの いらだち
島でしかないことの 悲しみのなかに
        ・
        ・
島は感じる
ふかい夜のむこうから
やってくるものの気配を
長い旅から かえってくる風を
たえずあの 青空の告げていたもの
怖ろしいまでの優しさ
ときあかせぬ 大地の微笑を

島は感じる
やってくるものの気配を
見知らぬ一日が
吐息のようにひろがるのを

島よ
のがれようもなく孤りでいるものよ
心のなか 虚ろな海に
浮かんでいるものよ
日ごと夜ごと その身をそがれ
なお遠い 火の刻印(しるし)を守りつづけるものよ

島よ
おまえは、私ではないのか
散り散りの、人という名の
儚い島ー
私ではないのか

ー島よ